日曜なので図書館は休み。というわけで、National
Galleryへ。フィレンツェ以来、15世紀のルネッサンス初期における空間遠近法と物語の遠近法との関係が気になっており、この時期のイタリア絵画を
見るといやがうえにもあれこれ考えさせられてしまう。さすがは大英帝国、Massacio, Fra Angelico, Piero de
Francesca, Bellini, Uccelloと、気になっている作家の絵が目白押しだ。
UccelloとPiero della Francescaの絵は、初めて見る作品であっても、遠くからそれとはっきりわかる。ウッチェッロの定規で線を引いたのかと思うような極端な一
点透視、そしてピエロ・デッラ・フランチェスカの描くやたらと下半身が堂々としてのけぞっている人物は、初期の空間遠近法がかならずしも一様な表現をもたらさ
なかったことを示しておもしろい。
中でいっとうおもしろいと思うのはサセッタ(サッセッタ)の一連の作品で、このナショナル・ギャラリーにある聖フランシスコの一生を描いた祭壇絵はひときわ異彩を放っていた。
たとえば、一枚目のパネルをことばによって物語るとすれば、こんな風に時間の流れに沿うことになるだろう。「裕福な家に生まれた男がアッシジの町
を出て歩いていると、貧しい騎士に出会い、男は自分の服をやってしまう。同じ日、男は夢の中で、自分が軍人となる夢を見る。が、ある声が彼にささやいてい
うことには、この夢は聖なる軍隊、聖フランシスコの命によるものである。」
しかし、絵ではこのように整然たる一次元の時間は流れていない。
まず、前面の左では、男が騎士に衣服をやるところ、右では男が部屋の中で寝ている横に天使がささやきかけているところである。ところが、その夢の内容を
象徴する聖なる砦は、絵の上部奥、部屋の外の天空に浮かんでいる。そしてその空は、男が騎士に服をやるその光景の上に広がっている空である。
つまり、起きている男と夢見た内容とが同じ空間に配置され、夢見ている男は別の空間に分かたれて配置されている。まずここがすごい。
次に、遠景には、男がやってきたらしい地上の町が描かれており、町の扉は開かれている。前景のドラマチックな光景に目を奪われた者は、そこから時 間を遡るように、男の来歴をたどって絵の奥の地上の町へとたどりつく。そして、地上の町の上部に聖なる砦が浮かんでいることに気づく。
つまり、地上の町からは時間軸が垂直方向に向けて二方向に分かれている。ひとつは男がたどってきた道に沿う、下方向の時間軸(これが遠近法によって表わされている)。そしてもうひとつは都市が上昇して聖なる砦となる上方向の時間軸。
男の二つの状態、現実と夢は、左右二つの空間に分かたれながら、夢の聖性によってつながる(覚醒とはこのことだ)。さらに、遠近法によって、現在 からの遠さという時間感覚は、よってきたる場所、いまだなされぬ行為の産物、という空間感覚へと重ねられる。過去も未来も奥行きへ遠のく。
ルーブルでも、サセッタの時空間感覚には驚いたが、この人の絵は要注意。
もうひとつ。眠る人・夢・現実がどのように配置されるかは、遠近法を考える鍵かもしれない。この、眠りによって目覚めを指し示すことと、眠りに気づかな
いこととが、空間にどう配置されるかを考察すること。マザッチョとフィリッピーノ・リッピ、そしてサセッタにおいて、遠近法によって空間ではなく時間はどう
組織されたかを考えあわせるこ
と
当時のドメニコ、フランシス各派修道院の動向にも注意。
受胎告知図も多く、町中にわんさか人がいる中で行なわれるクリヴェッリの異様な告知絵や、マドンナが両手を広げて聖霊と交流するかのようなプサンの絵も見るこ
とができた。
美術館のブックショップで受胎告知図を集めた「announciation」も手に入った。これは彫像やilluminated
manuscriptもふくめた安価かつ豊富な受胎告知アーカイブ。ついでに天使論の本も買う。
そのほか、Hoogstraten(1627-78)のピープショー(パースペクティブボックス;この箱の上がまたアナモルフォーシスでおもしろ
い)や、ホルバインの骸骨、さらにはヤン・ファン・アイクの凸面鏡のある、ヴェラスケスのヴィーナスとキューピッド(ヴィーナスの鏡像の大きさに注
意!)、レンブラントの部屋、二枚のフェルメールと、光学好きにはたまらん内容。アルルに行った今となると、ゴッホの黄色い椅子にも感慨新た。
セザンヌの面の表現をかみしめていると閉館時間。かれこれ5時間はいただろうか。
後期の講義は天使と受胎告知、物語と視点論ということにしよう。これなら自分の勉強にもなるし、本の準備になる。
Piccadilly線で移動、Covert Gardenで降りてぶらぶらしていると寺院前の広場いっぱいが不自然にぽっかり開いているのでどうしたのかと思ったらで大道芸をやっていた。
人々はものすごい遠巻きに芸を見ている。
道具立ては、小さな台に乗せられた小物入りのトランク、そして笛。芸人は道具の入ったトランクをバンと叩いては何かを始めようとするのだが、芸が行なわ
れていることに気づかずに広場の端を通り過ぎる人が後を絶たない。そして、小道具はじつはほんの刺身のツマで、この人たちをいじるのが刺身なのである。
笛を吹いて足止めをしたり、気づかれないようにこっそり近づいてその人の真似をした
り、いきなり抱きついてしまうことも。そして、なんとブラを抜き取ってしまう(もちろんあらかじめ用意した小道具)。メリハリがじつに気持ちよい。彼が動くことで広場のあちこちの出来事がポップアップし、巻き込まれた
通行人の行く末を見守っているうちに、目は広場を縦横無尽に移動させられている。じつにうまく広場に特化した芸だ。
通行人いじりが一段落し、トランクから風船を出して犬を作ったところで、今度は広場の端にいる小さな女の子にかざして誘う。そして女の子が歩み寄ってきて手を伸ばしたところで、なんと、それを石畳の上で踏んづけて割ってしまう。そんな。これには思わず笑ってしまった。
結局すまし顔の芸人に観客からブーイングが起こり、今度はちゃんと割らずに差し上げて一件落着、と思ったら、そばの父親に報酬をせびるしぐさをする。このあたりの酷薄さとせこさ、モンティ・パイソンの国の芸風だと思う。
さらにPicadely線でFinsburryまで。Red Rose Gardenで、宇波くん、木下さんと落ち合う。じつはパリで会おうと行っていたのだが、スケジュールがすれ違いで結局今日までのびてしまった。ライブは3セット。
2セットめのアンハラッド(バイオリン)、ベルトラン(サックス)、名前失念(Macintosh)のトリオの微音かげん。
演奏中、
ベルトランがいきなり顔を左右にぶるぶる振り始めて、とても恐くなったが、よく聞いていると、単なるけいれんではなく、音が出ている。サックスの管に息を
吹きかけながら顔を振っているのだ。その結果、ぷぷぷぷぷと管に息が衝突する音がして、うまく息が入った瞬間だけかすかな音程になる(あまりに恐かったの
で、あとで「フランシス・ベーコン・メソッド」だと宇波
くんに言ったら、本人に伝わってうけてた)。そこにきりきりと弦がきしむ音(のみ)をからませるアンハラッドの清楚な姿には、思わず「わが谷は緑なりき」
の主
人公のごとく「あんはーーーーど」と呼びかけたくなるほど(アンハラッドはウェールズの人なんだそうだ)。Macの音源も実にサンプル音らしくない音を選
んであり楽しい。
最後のセットはフィル・ミントンとギターのおっさん。フィル・ミントンは貫禄のある身体から膨大な量の汗を流しながら、ものすごく微細な声を出 す。いっぺんに3つくらい音程のある声が、本人のいる5mくらい奥からかすかに鳴っていて、ほんとうにあの身体から出ているのか何度も疑う。口をすごく 動かしているのにその効果はものすごく微か。大打者の空振りのごとく、球には当たらないが土煙が立っている感じですばらしい。その傍らでギターのおっさんがこれ みよがしに3コードを弾いているのも対照 的。
ライブが終わってから、ベルトランに音楽歴をたずねてみたら、最初からこんなぶっとんだことをやってたわけではなく、古楽やバロックが好きで、リコー
ダーをやってたこともあったそうだ。「じゃ、ブリュッヘンのビブラートとか好きでしょう?」「そうそう、あのすごいゆっくりうねるやつね」てなあたりから、スペイン
古楽集成だのレオンハルトだのの話をするうちに時間切れ。
帰りの電車で宇波くんが、「これ引いてみます?一枚あげますよ」と差し出したのはアナーキストカード。古今東西のアナーキストの肖像、もとい、似
顔絵が描かれたカードで、裏に説明が書かれている。でたらめに引いたらジョン・ケージだった。なんの兆候だろうか。でも「これはとってあるんですよ」と断わられる。