朝、Coiffureで髪を切る。
店に入るとき、フランス語は不得手なので英語で話しかけると「げ、英語」と女性二人はおもしろがり、おおげさなしぐさでシャンプー台へ、鏡の前へと誘う。
髪の切り方をあれこれ言うのも面倒なので、「Tout la
tete」と言ってから親指と人差し指を5mmくらいあけて頭をさっとなでると、「ほんとにいいの?」と何度も確かめるのでウイと答える。しかし彼女はまだ
得心がいかないらしく。「Vous voulez un
cafe?」などと、こんどはこちらのフランス語力を試すようなことをいう。床屋でコーヒーをすすめられたのは始めてだ。冗談だと思って「Sans
sucre」と答えると、ほんとうに砂糖抜きのエスプレッソが出てきた。
コーヒーを飲むまもなく、頭はすっかり坊主になった。ひげそりはメニューにはないようだが、髭が伸びすぎているので刈ってくれないかと、頬をなでるしぐさで頼むと、「コムサ?」とバリカンを取り出すので、ウイウイとうなずく。
今度は躊躇なく、バリカンは顔の上を走り出し、まるでコンバインのように刈り込んだ髭を勢いよくまき散らしていく。唇にも鼻の穴にも髭がまとわりつく。そ
れどころか鏡の前に置いたコーヒーのあたりにも飛び散る。向こうからもう一人の女性が「カフェ、ボン?」と声をかける。ウイと答えざるをえない。
最初にシャンプーをし、それから髪を刈り、またシャンプー。バリカンでワイルドに髭を刈っていただき、コーヒーまでごちそうになって、しめて16ユーロ。安いと
いわざるをえない。それにしても服やら身体やらが毛だらけになった。ホテルに帰って服をはたき、シャワーを浴び、残った髭をカミソリで剃る。
北駅へ行き、TGVでロンドンへ。日にち指定往復で90ユーロ弱。
車内読書は清水一嘉「自転車に乗る漱石」(朝日選書)。ロンドン関連書がていねいに参照されており、しかも筆者の書物逍遙ぶりがそこに重なり、楽しく読
み進むことができる。そしてこの本には地図があちこちに織り込まれているので、ロンドンをぶらぶらするにはよい手引き書になりそうだ。ロンドン関連の本で
持ってきたのはこれ一冊だけ。漱石の「倫敦日記」を持ってくるのを忘れたのが心残り。
Euston駅で降りてしばらく歩いたが、ホテルへの道がわからないので、向こうからしゃきしゃきと歩いて来る、手が宇宙人くらい長い英国紳士に
道をたずねる。紳士は「Well」と言ってから、まずこちらがロンドンカレッジであり、この公園のすぐあちらはおたずねの住所にある
Bloomsburryと呼ばれているのだが、そう、ちなみにこの向こうはGower
Streetであり、ほれ、そこに見えるのは経済学者のケインズの家だったんだが、と、豊富な知識を披露してくれるものの、いっかな先に進まない。
そこに通りかかった女性が話を聞いて、「あー、この南のほうにとにかくいっぱいホ
テルがあるのよ、そのへんさがしてみたら」と、こちらはじつにいいかげんな説明を加えてくれる。ロンドンには道案内の中庸を求めたい。
あとで気が付いたが、Gower Streetは最初に漱石が下宿した場所だ。漱石はロンドンカレッジのすぐそばをまず選んだのだろう。
結局Crescent
Hotelは、「そのへん」からは少し北東の公園に面していた。料金はシャワーとトイレが共同で46ポンドと、ロンドンだけになかなか高い。クレッセントというだけ
あって、目の前には三日月型の公園があり、カエデの大枝がマグリットの絵に出てきそうな窓の向こうでがさがさと木の葉ずれの音をたてている。大通りの音からは隔てられていて静か。なによりも机が広いのはありがたい。
電話線には別ソケットまでついており、「モバイルPCをつなぎたい人はTottenham Court
RoadにPCショップがあります」という説明まである。さっそく散歩がてらアダプタを買いに行き(7.99ポンドもしやがった)、SPAMの山を20k
の回線でゆるゆるダウンロードし続けること30分。ようやくメールを読み込みおわって、いまいちどホテルの説明書きを読み直してから、「1分1ポンド」と
いう恐
ろしい値段に気づく。「ご注意。モバイルでつながる電話回線は通常の電話に比べてかなり割高になっております」。ご丁寧に「This is
below average for London hotels」とただし書きまでついている。As we have mentioned it
というわけか。いやはや(*あとでこれは取り越し苦労だったことに気づいた)。
ネット接続はあきらめて、何人かに電話でホテルの連絡先を知らせ、買ってきたアダプタを引っこ抜く。さて1週間、ネットのない生活だ。
一人になったので、レストラン通いは終了。近くにあったスーパーでパンとラディッシュとカップスープを買ってきて夕食。いたって安上がり。それから本を読んだり原稿を書いたり。