ギュスターブ・モロー美術館。高校生の頃に画集で見た頃は、いわゆる「象徴主義」という名前からイメージされる神話的な記号ばかり見ていた。しかし、じっさいに絵を目の前にするとその当初のイメージはかなり払拭された。サロメやオルフェウスの耽美的な描かれ方よりも、それを裏切る描線を数多く発見できたからだ。 とりわけ、あたかも書きかけと見える署名つきの絵に惹かれた。丁寧に書き込まれた人物の上を太くかすれた線をがさがさと置くやり方。透かし文様のようなデザインや、同じ人物を描いた異なるタッチの素描を重ねて描くことで、一つの絵に何層ものレイヤーを重ね、多元世界化していること。世界を統合するのではなく、重ね、ずらせていること。 人物や宮殿の緻密さに比べて、流れた血をこすったような抽象的な背景。 モローの光沢はフェルメールの「点」とは全く違っている。王冠や後光を光らせているのは、細い筆で描かれた白の「線」だ。 ここには、習作のかなりの分量が収められていて、それを一枚一枚繰って見ることもできる。モローは習作の中のさまざまな彫塑やモデルを組み合わせ、人間と人間以外を組み合わせ、男と女を組み合わせ、いくつもの性を産み出している。 サクレクール寺院へ。フランスのカソリック寺院は少女マンガみたいだ。 Art des Metiersへ。ここは技術博物館なのだが、ミュンヘンのドイツ科学博物館的な展示だった。おそろしいことにここを見ていると世界の技術のほとんどはなんでもかんでもフランス生まれだという気がしてくる。もちろん気のせいだ。 が、少なくとも、ルイ王朝以来の錬金術的化学と度量衡の蓄積は、この国がダゲレオタイプを生み、映画を生む基礎を作ったには違いないと思う。写真術を可能にしたのは、なによりもまず、映像を定着させるための化学であり、映像を鮮明にするための光学であり、それらを可能にするための重さや長さの正確な測定の技術だ。 写真と映画関係でおもしろい器具がいくつかあったが、中でも驚いたのは、二つのゾートロープの筒を向かい合わせにして両眼で見る、両眼視ゾートロープ。 絵はがきや写真を漁るべくマリ地区を攻めるがさしたる収穫なし。ポンピドーセンター前を素見して、再び青山さん、田尻さんと落ち合い、バスティーユ広場の近くのレストランへ。どの皿もおいしゅうございました。 |