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20001115
 さて、今日は「あれ」について考えてみよう。

 小学校では「こそあどことば」っていうのを習う。そこでは、これ・それ・あれ、の順番にものごとは遠くなる、と教わる。
 「これはペンです」「それはペンです」「あれはペンです」。なるほどね。でも、これじゃただのひとりごとだ。会話例で考えてみよう。

例1:
A「この前な、ディズニーランドでプーさんに乗ってん」
B「ああ、あれよかった?」

 「こそあど」が距離の問題だとすれば、この「あれ」はBにとって遠いできごとである、ということになる。じゃ、これならどうよ。

例2:
A「去年な、ディズニーランドでプーさんに乗ってん」
B「ああ、あれね。わたしも一ヶ月前に行ったわ」

 Bの経験はAの経験より時間的により近い。でも、Bはより近いはずの自分の経験を指して「あれ」と言っているじゃないか。ほうら、「あれ」は遠いものとは限らない。
 ここで、「いや、Bは相手であるAの経験を指して「あれ」って言ってるんじゃないか」って反論があるかもしれない。じゃ、次の例のように言えるか。

例3:
 A「去年な、ディズニーランドでプーさんに乗ってん」
×B「え、あれなに?」

例4:
 A「去年な、ディズニーランドでプーさんに乗ってん」
○B「え、それなに?」

 ほら、例3ではBは自分の知らないことに対して「あれ」を使うことができない。つまり、「あれ」は自分の世界に照応するものがないと使えないんだ。
 いっぽう例4のように「それ」の方は使える。つまり、「それ」は、たとえ自分の世界に照応するものがなくても、相手の経験や世界を参照する場合なら使えるんだ。
 以上のことから、「こそあど」には、距離だけでなく、対人関係における世界や所有の問題が関わっている、ということが分かる。ここで挙げた例から考えられる仮説(飛躍ありすぎ)。

 ●「これ」は自分の世界を操作可能なものとして共有世界に差し出す。
 ●「それ」は共有可能になり操作可能になったできごとを指す。
 ●「あれ」は自分の世界にあって、話題となっている対象に照応するものを指す。

 飛躍したまま応用。
 だから、例1でB「ああ、あれよかった?」と答えるとき、Bは単に相手にあいづちを打っているだけではなく、「ディズニーランドに行ったわたしの世界」がそこにあることを表現しているんです。

 ちあきなおみが「あれは三年前」と歌ったとたんに「ちあきなおみの世界」が展開するのも、「あれ」という語の持つ力を彼女が引き出した、と考えれば納得、でしょう。
 起き抜けの出し抜けに「アレがない」という彼女に対して、「アレがなくちゃタイヘンじゃないか」と男が答えるとき、二人はお互い自分の世界に照応するものを発見し、にも関らずそれが共有できていないことにあせっているのです。ダウンタウンブギウギバンドでした。なんか例が古くてすいません。
 異変に気づいたときに「あれ?」と言いますが、あれは、自分の世界のできごとと目の前のできごととがうまく照応しないことに気づいて発する言葉なのでしょう。これはちょっと眉ツバ。
 ちなみに「あれ、くいじーぬ」と鹿賀丈史が言ってましたが、あれはフランス語です。
 それにしてもいきなり「なあ、あれ取って」と言う人、あれはいったい何を考えてるのでしょう。

 さて、飛躍終わり。では、以下のこそあどの迷宮を見ながらさらに「これ」「それ」「あれ」について考えてみよう(続く)。

例5:
 (一週間後の仕事に関してAは口頭でBに切り出す)
 A「なあ、来週の仕事どうしよう?」
×B「これ、おれが仕切るわ」
○B「それ、おれが仕切るわ」
○B「あれ、おれが仕切るわ」

例6: 
 (手帖に記された一週間後の仕事を指しながらAが切り出す)
 A「なあ、来週の仕事どうしよう?」
○B「これ、おれが仕切るわ」
○B「それ、おれが仕切るわ」
×B「あれ、おれが仕切るわ」

例7:
(ただし、長嶋はよくこんな言い回しをする)
 A「来週の仕事、どうしましょう?」
○長嶋「これはね、私が仕切ります。つまりですね・・・」

例8:
 (一週間後の仕事に関してAは口頭でBに切り出す)
 A「なあ、来週の仕事どうしよう?」
(5秒の沈黙の後)
○B「これ、おれが仕切るわ」
○B「それ、おれが仕切るわ」
○B「あれ、おれが仕切るわ」

例9:
 (一週間後の仕事についてあれこれグチりあったあと)
 A「なあ、どうしよう?」
○B「これ、おれが仕切るわ」
○B「それ、おれが仕切るわ」
×B「あれ、おれが仕切るわ」

20001114
 朝から学会打ち合わせ、会議などなど。夜、最近ゲットした透かし絵葉書を見ているうちに自分でも作ってみたくなり、文房具屋で紙を買ってくる。

 以下「おしゃれ工房」風。
■図案はご自分で描くのがいいのですが、絵が苦手な人は手近なものをスキャンしてもいいでしょう。今日はDoverのペーパーバックをスキャンしてPhotoshopでいじったもの(これ)を使います。光の部分がはっきりしたものがいいですね。
■絵葉書くらいの厚手の紙に絵柄をプリントアウトしたら、カッターで紙の一部を切り抜いて光を取り入れましょう。この図案ですと月の部分や波頭などがいいですね。あまりあちこち切り抜くよりも、たとえば舳先やオールのあたりというぐあいに、月の当たっている部分を限った方が仕上がりが美しいでしょう。また、複雑な輪郭よりも丸や四角で構成された輪郭の方が効果的です。細かい部分は針の先で穴を空けていくのもいいでしょう。
■次に裏打ちに使う紙の方に色を置いていきます。ここでは破れにくさを考えて凧紙を使いますが、障子紙のようなものでも結構です。
■さきほどの絵の紙の裏に凧紙を仮止めいたします。光にかざしますと、穴をあけた部分が影絵の陽の部分のように浮かび上がりますので、輪郭を軽く鉛筆でなぞりましょう。
■なぞり終わったら凧紙をとりはずし、裏返して透かしてみましょう。鉛筆の線が透けて見えます。ここに水彩絵の具でお好みの色を置いて下さい。多少はみ出し加減で構いません。和紙が不安定な場合はガラスやプラスチックな板に貼って、透かして色を置くとよいでしょう。絵の具が乾いたら、裏の鉛筆の線を消しゴムで消してしまいます。
■最後に絵の紙の裏に糊を塗り、和紙をぴったりと貼り合わせれば完成です。
■できあがった透かし絵を光にかざしてみましょう。小窓に貼って後ろから光を当てるのもいいですね。

■今回は厚手の紙に絵を描いて薄手の紙に色を置きましたが、逆に薄手の紙に絵を描き、後ろのあちこちに厚手の紙をパッチのように当てていく手法もございます。ジオラマ絵でよく用いられる方法ですがそれはまた別の機会に。

20001113
 午前、会議。午後、大阪ドーンセンターで会話分析研究会。マクニールの「Pointing and morality in Chicago」を紹介。しかし、このタイトル、わけわからんなあ。「シカゴをめぐる指差しとモラル」とでも訳すのか。

 後の飲み会で、串田氏が、「きゅうすの口の形がまず笑えるんだよねえ」と言い、その後その場にいた人間は何か妙な薬でも飲んだかのように笑いが止まらなくなる。中華さじを見て笑い、あたりにある曲線を手当たり次第に見つけて笑ってた、と思う。断っておくが、何もコーヒーショップにいたわけではなく、ただの鳥なべ屋にいて鳥を食ってただけである。

20001112
 昨日から吹き込んだいくつかの断片を「独語論」というファイル群にする。mp3で圧縮したけどそれでも2Mはあっという間にいっぱいになる。

 ジングルを付けたりBGMを付けるのはあえて避ける。ノイズがあっても途中で鼻をすすっても咳をしても構わないことにする。いわゆる「ラジオ」というスタイルを踏襲すると、どうしてもラジオですでに確立された、いわゆるDJとかパーソナリティの語りに近づいてしまう。そしてその語りは適当な長さ、適当な終結を持つ「番組」に近づいてしまう。たとえそれが「インターネットラジオ」であっても、目に見えないラジオ編成の中でラジオ編成に拮抗する力を手がかりに語りは進行してしまう。

 番組ではなく、ファイルを置く。一つのファイルが一つの報告に対応し、成長点を持った一つの植物に対応する。そのようなスタイルが、「独語」には似つかわしいと思う。

20001111
 近くの電気店でICレコーダーを買う。買ってみると用もないのに吹き込みたくなる。ぼくは行動観察で目の前のできごとを吹き込むという経験を積んだので、誰もいない場所で一人でしゃべるということにはそれほど抵抗を感じない(全く感じないわけじゃないけど)。

 聞き直したときに、まず自分の声を聞くという体験への違和感が立ち上がってくる。しかし、それは単に、自分への気恥ずかしさだけから来るのではない。
 きちんと頭の中にできあがった文章ではなく、いま組み立てられ、壊されつつあることばをしゃべる、何かをしながらしゃべっていられるということの奇妙さ。誰かを前にして語るのではなく、いまここにいない誰かに向かって語ることの不自然さ。そのように不自然な声を自分で発していながら、録音された声を聞きながら、その声の受け手に自分がなりそこねていることに気づくこと。報告。

20001110
 近さんと大会打ち合わせ。午後から小暮さんに会いに磯辺君、渡辺さんと唐崎へ。予想を上まわるばかでかい建物に驚く。小暮さんには12月と3月に行なう「Grand Light」の相談。商店街でイベントを打つときの基本を教わる。

 家に帰って、何も手につかずつい「耳をすませば」を見て、あ、けっこういいじゃん、この京王沿線の起伏、などと思う。気が摩滅しているからでこぼこがあるとヨロコブのかもしれない。本棚から鉱物図鑑を取り出すつもりが「坑夫トッチルは電気をつけた」を取り出す。最初の二音しか合ってない。坑夫トッチルは電気をつけた。ほら、坑夫が電気をつけるまでこんなに起伏がある。ここには起伏がなさ過ぎる。かといってツルツルでもない。ツルツルでは自転車がこげないからだ。徒歩でコンビニに行き、雪印牛乳3.5を買う。ココアがダマになるのを鍋底をざあざあとスプーンのヘリでなぞる。起伏はわからないがココアは濃くなる。

20001109
 朝イチで消防学校からお迎え(非消防車)。午前中、消防学校の講義。意思決定論の話を中心に判断とコミュニケーションの心理学について話す。

 ここのところ毎日朝6時台に起きるという(ぼくにしては)画期的な生活を送っていたが、昼は頭が重くてつかいもんにならん。午後はあれこれ事務連絡処理やらネット整備やら。また机面が見えなくなってきた。夜9時、どうしようもなく眠たくなりTVチャンピオン見ながら仮眠。

20001108
 日心三日目。午前「ジェスチャー研究の最前線」にアイディア湧きまくり。質問しまくり。午後「スピーチにおける感性情報」は会話の間の話。その後、余語さん主催の「感情あるいは心的外傷経験の抑制と積極的処理をめぐる諸問題(II)」。

 心理学における会話やジェスチャーへのアプローチからは刺激を受けると同時に違和感も起ちあがってくる。見事にon going感が抜けているんだ。会話をカテゴライズしてそこに起こるジェスチャーや発話のプロソディを計測するとき、会話の過程は抜け落ちてしまう。さらに、あらかじめ教示で会話の質を操作すると、on goingで関係が変化していくはずの会話がスタティックなものとして捉えられてしまう。そして、プランされた発話やジェスチャーが、プラン通りに産出されているかのような錯覚を起こしてしまう。

 行動をある時間単位で見るときに、行動の多型が見えてくる。それを比較することで、とりあえず機能は説明できるし、(遺伝子なりミームなりの)伝達径路が分かれば進化の文脈で行動を語ることもできる。
 しかし、その単位にとどまることなく、会話を、微細なupdateにつぐupdateとして捉えること。データの数え上げや実験的統制を微細さへの探索的ツールとすること。そして、もし会話の機能や進化を問おうとするのであれば、こうしたupdateの過程自体を問い直し、行動の時間単位を問い直すこと。

 帰りに電車で「アフォーダンスの心理学(リード/細田直哉訳/新曜社)」。

 戻ってメールを見たらeBayのsellerから、「International Postal Money Orderを銀行に持っていったら2ヶ月待たされて$40手数料がいるって言われた。もういいですって捨てぜりふ残して帰ってきた。悪いけどお手上げ。明日朝返送する」との知らせ。あーもう。not bank but POST OFFICEって書いたろうに。「ちょっと待って!だいじょうぶ。郵便局に行ってごらんよ」と返事。間に合えばいいけど。

 羽尻さんから電話。遊びたいところだが今日は我慢。
 明日の消防学校の講義の準備。

20001107
 日心二日目。朝は[自己をめぐる語りのフィールド−<名を呼ぶ>個と類のあいだ」。ぼくもそうなんだけど、パネラーに川田順造氏のファンの多いのにびっくり。やまだようこ氏が冒頭で「Oh, Yoko」の例を挙げる。それで思い出した歌は、アーーーイスミマセンヨーコサン。オノヨーコはカタカナでやまだようこ氏はひらがな。ひらがなにあるのは音以上の筆蝕? 「名乗り」について質問。
 久しぶりに斎藤さんにお会いする。じつは日心に顔を出すのは10年ぶりなので久しぶりに会う人が多すぎ。

 午後、飯食ってから「フィールドから表現へ」「ワーキングメモリの脳内メカニズム」。しかし途中で電池切れして本を買いあさって会場脱出。福村出版「シリーズ・心理学の技法」で各ジャンル概観。ナカニシヤ出版「なぜ悪いことをしてはいけないのか」の第二永井・大庭論争など。

 もうええっちゅうほど本を抱えてるのにさらに市役所前で途中下車。古本屋に寄って久保田万太郎集、キュートな表紙の「ビューティフォートブック」。そんな後って必ず喫茶店に行くんですよ。

 帰って一昨日MDに入れた「世界の果てまで連れていってよ」(カーネーション)。

20001106
 朝まで仕事。2時間寝て京都の日本心理学会へ。

 下條氏の発表は、知覚レベルで起こる「記憶→知覚→記憶のアップデート」の話。オリジナル記憶が歪むという話ではなく、記憶とは知覚によって随時更新されるいわば「弱い知覚」なのだというところがミソ。Duncker の運動錯視に関する実験も簡にしてピンポイント。
 午後、茂木氏他によるクオリアの発表。フロアからの発言にもあったが、「志向性」ということばと対比してしまうと、クオリアということばのうまみがやや逃げるように思われる。トップダウンかボトムアップか、よりも、そうした過程が「一気にやってくる」と感じられるその感じの方を問題にしてはどうか。

 帰りに三月書房。あいかわらずここにいるのは気持ちがいい。裁断の危機にあるペヨトルの本もたくさん置いてあった。自著「ステレオ」を一冊救出。他にユリイカ別冊「田中小実昌」「テルミン(竹内正実)」など。

 荒俣宏の「eBayお宝マニュアル」、ほとんど素でただのeBayerぶりが書いてあって、それが逆に好感度高し。いやほんと、コレクター道が深いのはyahooよりeBayの方。市場がちゃんと形成されてる。浮世絵だったらウタマロとかホクサイやヒロシゲだけじゃなくて、ちゃんと川瀬巴水をはじめ近代の版画運動の作家のコレクターの市場もあるし、売り手もそれなりの情報を提供する力を持っている。エレベーターマニアなんて世界に自分だけかと思ってたけど、eBay行くとちゃんとオーティスマニアとかいるもんな。

 車中、田中小実昌がトイレを探す話を読みながらいつの間にか寝ていた。

20001105
 朝まだき、TVで演芸録画。紙切りで揺れる体。

 ひと月前に買ったミニコンポには5MD, 5CDの機能が着いているのだが、いままで使ったことがなかった。各CDの一曲めを自動的にMDにダビングできる機能があると知り、これまで買いためてあったレンタル落ちシングルCD(一枚10円)を片っ端からダビングする。1970年代のシングルも2000年のシングルも同列。
 意外によかったのが、ともさかりえ「カプチーノ」。椎名林檎より蓮っ葉で表面的で、その分痛い(彼女の顔の歪め方のように)。しかし、カプチーノの泡見つめながら「白に茶色が負けている」って思いますか、ふつう。人生何でも勝ち負けだと思たら大間違いやで。て誰に言うてんねん。

 松任谷由実「潮風にちぎれて」の、まるでよその国のようにスカスカな音像。確か70年代末の曲。この思い切りのよさに比べると、90年代の「Hello, my freind」の中途半端なこと。コーラスの前の「あーあああー」ってとこに歌詞をあてることができないユーミン。あるいは、歌詞をあてることができないことを自分で認めることができるユーミン。そんな大人の感性が聞こえるがゆえに、ここ十数年のユーミンを聞く気がしない。

 2000年秋に聞くスチャダラパー「サマージャム95」。季節と年号のあるエバーグリーン。

 翻訳校正。NHKアーカイブ「追突」「歩道橋考」。音楽がまるでヒノテルだと思ったらほんとにヒノテルだった。



20001104
朝「オードリー」を見てから寝る。起きたら午後三時。小川珈琲で翻訳校正。帰ってまたカレースパ。これで四食連続スパ。あいかわらずピアノはラヴェルのソナチネの二曲(いちばん簡単なやつ)。譜面はメモだらけ。夜中、グラフォスコープで絵葉書。通りを渡る小さな人物をしばらく見続けていると、とつぜん通りが奥行きを帯び始め、空気が濃くなる。パノラマを見るのと同じ要領。フィニィの「ふりだしにもどる」の主人公が会得したのはこんなコツだったのかも。

20001103
休日。昼までピアノを弾く。午後から翻訳校正。小川珈琲でナポリタン。校正。帰って一昨日の残りのカレーでカレースパ。校正。さらに夜食はジェネバペーストと松の実でスパ。校正。

夜中過ぎ、NHKでショルティの生涯。語りまで指揮のように大きい。そんな絵に描いたような語りは、悪くない。ザルツブルクの初日がナチのオーストリア侵攻開始の日、とはまるで「サウンド・オブ・ミュージック」。
ヘッドホンを付けて朝までピアノ。もつれる指が勝手に旋律に分岐していきかける。その指に委ねたいのだがなかなか指が信じられない。

が日本に対応するようになった。これでオークションの振込みが楽になるか?

20001102
みんな妙にやさしいやないか、ヴィンセント・プライスみたいやな、真夜中とともにおでましや。なんでも二回言わな気いすまへんのか、こっちの目ぇのぞきこんで「息子みたいにかわいいなあ、息子みたいにかわいいなあ」て。やらしいおべっか使いよって、ミエミエやん、ひっかけるつもりなんは。ほら、もうすぐ来よんで速達で、何もないけどな、こっちから配達するもんは。(Peter Blegvad "Special Delivery")

ゼミ、書類、メールなどなどであっという間に夜。鍋焼うどん。メガ日記が始まってた。久しぶりに携帯日記をつける。かえるさんレイクサイドにはいくつか新機能あり。

20001101
講義で啄木と塔の話。
国際高等研で小泉義之・篠原資明・檜垣立哉氏のドゥルーズをめぐる話を聞く。見るに堪えがたいものを見てしまう行動学、というのを考える。
帰りに本屋で「マリ&フィフィの虐殺ソングブック(中原昌也/河出文庫)」。すばらしい。深々と嫉妬。
雨がはねかえるのか、どこかから鼓を打つような音。幾度か続けて鳴るうちに、人のつぶやきに変わっていくようだ。

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Beach diary