「凌雲閣開業式の模様」(国民新聞、明治二三年)より(2)



 サテげに覚束なきは昇降機(エレベートル)の運転なり。昨日も午後三時頃にいたりては器械に少しく損所を生じたりとかにて其運転を見合せ三時後に登りたるものは遂に其眼目とも謂ふべき昇降器の味ひを嘗むることを得ざりしぞ気の毒なる。
 九階楼上少し赤らみ顔して先づ四方を眺めつゝありしは榎本子爵なりやがて相携へて昇り来りし礼帽紳士は蜂須賀府知事、田中警視総監の二氏なり。しばらくして三遊亭円朝は門人金朝を随(したが)へて昇り来り。「イヤー是は」田中子「金朝、君は此処に店を始めたソーダナァー」金朝「ヘー此下にへゝゝゝ」とやがて此一団の連中相携へて十二階まで昇り何れも凌雲閣頭五重の塔を卑(ひく)しとするの概あるものゝ如し。一人「雪看には持て来いならん」といへば円朝ヌカラぬ顔して「此処まで昇る内には雪は消へて仕舞ひますよ」と是は其通りならん、田中子「此処では澤山材料(たね)(新聞の種にあらず)が取れるダロー」といへば円朝「イエ余り見へ過ぎて却て取れませんよ」田中子は更に北方を指さして「併し彼処を見る先生別に眼ありダローナー」と円朝笑つて答へず田中子も亦洒落ものと謂ふべし(三時以降登閣者の所見)

  (『国民新聞』明治二三年一一月一二日。旧漢字は随時改め、また原文に句読点を付した)



 まず注目すべきは、エレベーターの故障の記述。呼び物だったエレベーターは、実は初日からトラブルに見舞われていたことがわかる。式典への集合は二時四十分だから、じっさいにエレベーターが稼働したのはせいぜい1、2時間のことだったのだろう。
 エレベーターのトラブルは他紙でも伝えられている。開館前に行われた新聞記者たちへの公開では、「職工を督促したるも午後十一時頃ならでは其運び行きかね」(時事新報・明治二三・十・二七)、記者たちに電気モーター部分だけを運転して見せて終わった。さらに、十一月の開場直後にも故障が起こり、電線工事を行った結果、十一月二三日、ようやく運転は再開された(読売/明治二三・十一・二五)。呼び物のエレベーターは、じつはかなり不安定な代物だったことが伺い知れる。

 次に目を引くのは当時売れっ子だった円朝が上ったという記述。この二ヶ月後、歌舞伎座で黙阿弥の筆になる「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」が上演され、そこでは菊五郎演ずる円朝が十二階に上った感想を述べるのだが、この記事から円朝は実際に十二階に上っていたことがわかる。さらに弟子の金朝はどうやら階下(?)に店を出していたらしい。新演芸(大正五年)に明治末期を回想して「落語家三遊亭金朝は其隣に住つてゐた頃だ」とあるので、もしかすると、十二階の隣に出していたのかもしれない。

 最後に田中警視総監が北方を指さしているのは言うまでもなく吉原のことである。十二階から吉原をまなざすという物語は、じつは十二階が開業したその日にすでに発生していたのだ。それはやがて、岡本綺堂の新聞記事に現れ、さらには変形されて乱歩の「押絵と旅する男」に現われるだろう。

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