「十二階」(「浅草公園観せ物総捲り」新演芸第1巻3号・大正五年)




図k-4:大正三年以降六年以前の十二階(石版絵葉書)
すぐ左のサラセン風の丸屋根は遊楽館
そこから左に江川玉乗り大盛館(入母屋屋根)
江戸館(白い屋根)、キネマ倶楽部、東京倶楽部

 今では別に驚く程の事でもないが国会開設の明治二十三年に隆々として天聳(そそ)り立ち東京市の半空を占領したる凌雲閣の出現は二十余年前の市民をして驚駭(きょうがい)讃歎措く処を知らざらしめたものである、東京名所の一として浅草の十二階が今日あるに至つた事は好奇と野心と成金と落伍と発狂と死との背景(バツク)が一階は一階より幾多の変遷を重ね来つた異彩に拠ってである、東都唯一の歓楽場は公園世相史の舞踏場(バレエ)として厖大十二階の如き者を迄も幕外に逸せしめなかつた、十二階は明治廿一年六月新潟県長岡の織物商福原庄太郎が東京帝国大学教授伊太利人故バルトンの設計に依り国会開設の記念建築物として十万円を掛け建設に着手したるも七階迄出来て其資金は全滅し一時立腐れの悲境に陥つた、浅草の有志今井喜八、江崎禮二、大瀧勝三郎の三君資金を投じて協力し十三万六千円を以て十二階完成の目的を達した、地下を掘る廿尺地上よりの高さ百廿二尺、始め一人十銭なりしが見物人少なく八銭に値下げしたが尚々少なく大いに持て余してゐた処へ一人の成金が飛出して来た十二階の下に西京焼と云ふ焼芋屋で儲けて一杯呑み屋の飲食店で又儲け人の知らぬ間に十万円近くの金を溜めた、四十三年其金で忽ち十二階を買受ると共に夜中五階迄登らせる事にした之が当りて七階に登らせ又当つて十階迄登らせ儲けた金で梅坊主一座を雇つて階下へお神楽堂に似た家台(やたい)を作つて余興的に見せた、落語家三遊亭金朝は其隣に住つてゐた頃だ、日本手品を掛ける京の六才踊が来る伊勢の太神楽を呼んで大当りに当つて岸は大々的の成金になつた処が向島へ料理店女夫風呂の太陽閣を作つたのが失脚の基で大失敗をなし大正二年十二階株式会社を設けて其大株主で重役で有た者が全部の株を売却し裸一貫で今は巣鴨に退却して了つた、会社の成立は大正二年五月十五日資本金三十万円二十円全額払込済、取締役社長松崎権四郎、専務取締役佐々木一義、取締役岡田末吉、中村伝右衛門、松崎文治、監査役島田友治、石山清之助、相談役米本鉄太郎の諸氏営業部主任高瀬富昌君である。会社前に神楽堂を取払つて現今の余興場を作り美音館を宿無しにされた都桜水、港家小亀、丸一弥之助等が実演旧劇を演じた、今東京館に役者振ってる藤井弥之助は此丸一の弥之助である、其跡へ有田松太郎鶴若(つるじゃく)等が集まり四年十一月よりは村田正雄が低級者へ劇智普及を標榜して納まり掛けたるも却つて低級者に捨られて退却した、五年一月一日より村田に代つて現今の坂田半五郎一座の旧劇実演になつてから漸やく客足を呼返して来た、此余興場は十二階へ登る料金七銭を払へば縦覧が出来るので客は地方人が四分以上ある。

「十二階」(「浅草公園観せ物総捲り」新演芸第1巻3号・大正五年より)  

 記事の末尾の料金体系には「▲二階三等五銭、一等十銭、特等十五銭▲十二階見物料大人七銭、小人軍人四銭、昇降器片路三銭、往復五銭」とある。どうやら十二階演芸場の内部は二階建て構造だったらしい。関東大震災後に十二階の残骸に見える屋根の跡は、十二階の三、四階付近についており、この事実も芝居小屋内部が二階以上の構造になっていたことを傍証している。
 「十二階へ登る料金七銭を払へば縦覧が出来る」とあるが、これは、二階席に入れるという意味なのだろうか。

 岸源三郎が向島で試みた「太陽閣」の女夫風呂については、都新聞(大正二・九・二〇−二四)に詳しい。男女二人連れで風呂に入らせ、料理も出すという、今でいえばラブホテル+料亭という趣向だったらしい。料理は当時浅草で有名だった一直に頼み、開設当時は繁昌したが、一直の主人と衝突して岸は失脚した、とされている。

 設立や改変の経緯に関してはこの文章の信憑性はかなりあやしい。まず十二階の建設開始は二十一年ではなく二十二年である。設立は、当初の開設予定日(三月三十一日)から考えて、国会開設記念ではなく内国博覧会記念と考えられる。バルトンはイタリア人でなくスコットランド出身である。工事の中断は七階ではなく十階で起こったと考えられる。また小屋掛けの演芸場が作られたのは明治四十三年ではなく四十四年、株式会社の設立は大正二年ではなく明治四五年である。(以上の詳しい根拠は「浅草十二階(青土社)」に記してある。)

(2001 August 12)

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