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20010925


Wien

 午前中、ゼセッション。建物がかわいい。あ、なんか植物がはみ出てる。少女マンガみたい、なんて思うんだが、もちろんゼセッションの方が少女マンガより前である。ここには、クリムトのBeathoven Friezeがある。目線よりずっと高いところにフレスコとして掲げられていて意外だった。もうひとつ意外というか印象的だったのは、「詩人」と「アート」との間に空白の壁がひとつ設けられていたこと。眠りの時間の流れを強く感じる絵だ。

 ウィーン美術史美術館。ルーブルみたいに途方もないかと思っていたが、建築と内装のおもしろさもあって意外に楽しめた。苦手なルーベンスは飛ばしてフランドル派をゆっくり見て、反対側のイタリア絵画をまたゆっくり見る。

 エル・グレコのトリノ。空の拡大、土地の拡大とともに歪められ青ざめていく画面。
 ド・ヘームの静物画のブドウ。まるで水晶玉に部屋のすべてが映りこむように、一粒一粒に宿されている世界。
 ティンツィアーノの肖像画。画家と(観るものと)アイコンタクトをしないことがindivisualityを強調するという不思議。これは視線をそらした瞬間を描いたものではない。画家の前でポーズをとるという長い時間から、見られていることを忘れる時間へとスリップした状態、見る見られるの時間から分かたれた状態が描かれている。
 ヴェラスケスの描く服のしわが、とても太く大胆な筆致であるのに驚く。フェルメールの筆を拡大したよう。

 カフェで人心地ついていると、昨日会った臨床医の人にばったり。

 工芸品もおもしろかった。特に時計とオートマタの連続性。こうして見ると天球儀って一種のオートマタだな。「小球時計」の仕組みがとっても気になる。カタログを読んでもよくわからない。
 
 夕方、時間があったのでフンデルトヴァッサーの「KunstHaus Wien」と「Hundertwasser Haus」に行ってみる。スレート色のウィーンの中で、これらの建物は明らかに異質で、色にあふれている。でも、これってガウディのミニチュアだよな。タイルの使い方なんかもろにそうだ。そしてもはやアイコンに近いうずまきのオンパレード。生というよりも貪欲さの表われた場所。ウィーンはフンデルトヴァッサーを必要しているのだろうか。ぼくには必要ない。いたたまれなくなってすぐに出る。

 気分直しに観覧車に乗る。1896-7年にワルター・バセットによって建てられてた由緒正しい観覧車だ。1945年に爆撃と火災で破壊されたがその後再建された。ゴンドラはほとんどコーチと呼べるほどでかい。幅は2mほど?長さは6mくらいあると見た。
 ハプスブルグ的速度でまことに上品に回るので遮蔽の変化を感じにくい。しかも客を乗せるたびに止まる。上昇と下降というよりは、いくつかの高さで止まって景色を見るという感じ。
 ロケーションも感心しない。街を眺めるには遠すぎ、かといってドナウ川を眺めるにも半端だ。そして値段も600ASと、とってもハプスブルグ的。

 連日の疲れもあって、すっかり気分が萎える。適当なところで飯をと思い、市電を乗り継いでいるうちに、腹が減って寒くてますますイヤになる。途中で降りて適当なカフェで安そうなTages Menuとビールを頼んで復活。

 もちなおしてオーストリア応用美術博物館 (MAK)。MAK Nightといって夜中までやっていた。
 ここはおもしろかった。特に3Fの、ジャッドやタレルをはじめ遮蔽関係を意識した作品の展示。知らない人の作品もたくさんあったが、どれも興味深い。Manfred Wakolbinger "Gang" 1987は、四角柱に絶妙な穴が開けられていて、まさにパサージュ的。

 ちょうどイームズ展もやっていた。全体的に映像作家や企画者としての業績よりもデザイナーとしての業績に焦点をあてた展覧会だったが、運動場の泡掃除のビデオを床に投射してるのはナイス。

 イームズのフロアより、常設展の椅子や家具の展示がおもしろかった。分断された電光掲示板を使ったり、鏡とワイヤーで奥行きの錯覚を起こさせたり、展示方法も工夫されている。
 複製品としての工芸品の部屋では、型抜きや着色の道具を展示して複製過程じたいを展示していた。いいアイディアだ。

 11時ごろホテルに戻る。

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Beach diary