十二階下の鳥瞰図(千束二丁目)




(文芸倶楽部大正二年四月号より模写)

 鉱山の地下に坑道が有るやうに、十二階下の魔窟には何々新道何々横町といふのが覚えきれぬほどあるのだ。新吉原ではチョンチョン格子といはれてゐる小店而巳(ばかり)の小路をトンネル横町といつてゐるが、千束町の新道横町は矢張それと同一(ひとつ)だ。(中略)

 その小路の暗き所、横丁の灰色な空気の中に鼠鳴きして嫖客を迎へるさま金切声を絞つて『チョイトチョイト』と泣いてゐたのは昔の事で、今は摺硝子(すりがらす)の薄暗い中に蠢々乎(しゅんしゅんこ)として低声(こごゑ)に男を呼んでゐる一場の悲惨な光景は描き出されるのだ。
 そして数多(あまた)の横丁新道にも盛衰栄枯があつて、何新道は玉が揃つたとか何横丁は醜婦(すべた)ばかりだとか遊治郎(いうやらう)は品評してゐる。当今では猿之助横丁が美人揃だといつて蕩児が騒いでゐるさうだ。

(「千束町探訪記」文芸倶楽部、大正二年四月号より)

 この「千束町探訪記」には、最盛期の十二階下の様子が余すところなく書かれていて、当時の様子を知るには最適の文献。
 地図の道は掲載されたものをトレースした。文章にある「新道」「横丁」が詳しく描かれている。十二階の位置はややおかしくて、もっと北西寄りと考えられる。そうすると、松新道を初めとする小路が十二階とどういう位置関係だったかが気になる。

   明治四二年五月一日、石川啄木は例によって、この千束町に来て、女に袖をとらえられた。

 ほどなくして予は,お菓子うりのうす汚い ばあさんとともに,そこを出た.そしてほうぼう 引っぱりまわされてのあげく,センゾク小学校の裏手の 高いレンガべいの下へ出た.細い小路の両側は 戸をしめた裏長屋で,人通りは忘れてしまったようにない:月が照っている.
 “浮世小路の奥へきた!”と予は思った.

  (石川啄木『ローマ字日記』)

 千束小学校へは、上の地図の「吉原へ」と書かれた道を下に(北に)行って、地図の外に出る。まさに浮世小路の奥。そこにたどりつくまでに、どのような迷路をたどっていったのだろうか。

2002 May 4

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