一枚の絵葉書から

(その15の2)

8月の洪水、「修善寺の大患」

細馬宏通




 明治43年8月6日、夏目漱石は療養のため修善寺に発った。車で菊屋旅館に向かう頃には、雨が激しく降り出し、夜道のくらがりは漱石の目に川のように映った。蛙の声がおびただしくなった。その夜はずっと、強雨の音が響き続けた。

 この月、関東地方は例年よりも冷夏で、天候不順ではあったが、8月7日の両国川開きは例年通り行なわれ、途中驟雨に見舞われたものの、多くの人で賑わった。

 東京朝日新聞で最初に豪雨の兆候が報じられたのは8月8日で、第四面の最下段に、「群馬の豪雨」と題した記事が載っている。各地の川の氾濫や堤防の決壊 が報じられ、かなり甚大な被害が出ているにもかかわらず、地方であるせいか扱いは小さい。いっぽう、東京地方についてはとくに記述がなく、「立秋の天候」 という記事が「京阪以東は矢張り雷雨起り冷涼の天気尚継続すべき状態なり」と報じている。

 8月9日、こんどは「神奈川県の水害」が第五面の中段に報じられて、横須賀・逗子・茅ヶ崎・鎌倉方面などでの深刻な被害が記されている。しかし、ここでも東京に関しては、江戸川や多摩川などの増水に関して「諸川増水」と報じられているのみである。

 これらが「東海道」一帯の大被害として拡大して報じられたのは8月10日で、この日の第五面全体は「稀有の水害」と題されて、水害記事に割り当てられている。ただし、この時点ではまだ東京付近の被害は最下段である。

 翌8月11日、記事は一気に拡大し、第四面のほとんどが各地の被害に割り当てられ、第五面のすべては東京市内の被害を報じている。前日の10日に、六郷川、川越の堤防は決壊し、各地で浸水の被害が広がった。

 雨は小康状態になると予測されたが、被害はさらに拡大し、8月12日の水害記事はついに第三面、長塚節「土」の連載面にまであふれ、六面には各地 の被害実況を撮影した写真が挿入された。鉄道が不通になったため郵便は滞り、東西のやりとりは「悉く海上輸送に依る」事態となった。綾瀬、小梅で堤防が決 壊、向島は「大湖水」、本所は「水漫々」となり、11日の午後8時には吉原堤以北の浅草下谷各町は全く水に浸され寸地なきにいたった。

 漱石日記の10日から12日までは、日付がまとめて書かれており、「夢の如く生死の中程に日を送る」とある。
 断続的に降り続いた雨による被害は、不安の染みが広がるように日を追って拡大していった。新聞記事の報じる洪水被害の度合いに重なるように、漱石の病状は悪化した。新聞は遅れ、届いたものも雨でひどく湿っていた。

 湿った頁を破けないように開けて見て、始めて都には今洪水が出盛っているという報道を、鮮やかな活字の上に まのあたり見たのは、何日(いつか)の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控えて、その日その日の出来栄を案じながら病 む身には、けっして嬉しい便りではなかった。
 夜中に胃の痛みで自然と眼が覚めて、身体の置所がないほど苦い時には、東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じな い訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇(はげ)し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊れ過ぎた。のみならず東 京その物がすでに水に浸っていた。余はほとんど崖と共に崩れる吾家(わがや)の光景と、茅が崎で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。

(「思ひ出す事など」)


 紙面を覆い尽くした水害記事は、15日を峠にようやく収束に向かいだした。しかし漱石の病状はおもわしくなく、ようやく日記を書く力を得たのは20日の4時過ぎだった。この日、洪水後の復旧状況を報じる記事にまじって、朝日新聞には「夏目漱石氏の病状」が掲載された。復帰した東海道線に乗って東京から鏡子夫人もかけつけた。
 不思議なほどに天気はよくなった。21日には花火が上がった。22日と23日の日記の冒頭には「快晴」と記された。22日、漱石は牛乳一合、重湯五勺、卵の黄身一つを食べた。鏡子夫人は縁側で、医師の森成麟三、漱石の教え子坂元雪鳥とともに水瓜(すいか)を食べた。匙で水瓜の底を突くと赤い汁が湧いて出て、漱石は、匙ですくったその汁を飲ませてもらった。

 「忘るべからざる二十四日」、漱石はとつぜん大吐血をし、人事不省に陥った。

 この年、どういうわけか漱石は、手帳の頁を遡るように縦書きで日記をつけていた。23日まで続いていた日記は、東京から駆けつけていた鏡子夫人によって、同じ手帳の同じ41頁から、やはり漱石と同じく頁を遡って書き継がれている。危篤という事態とはいえ、一冊の日記を夫婦が書き継ぐのは珍し い。  その後、日記は漱石が回復するまで毎日欠かされることなかった。そこには、その日その日の容態と見舞客の名前が簡潔に綴られた。

 漱石が再びこの手帳に日記を書きつけるたのは9月8日。しかし、漱石は、鏡子夫人の文字が記された37頁から続けて書くことを避けて、断片を書きつけてあった手帳のはじめの方に戻り、11頁から日記を綴り始めた。
 この日の日記には「庇護 被庇護」という文字とともに、「自然淘汰に逆ふ療治」「半白の人果して此看護をうくる価値ありや」「吾より云へば死にたくなし。只勿体なし。」と、あたかも生きながらえた自 分の今のありように疑問を呈すようなことばが記されている。

 再開された日記は頁を順に進んだ。10月7日には夫人の記している37頁につきあたった。漱石はそこに「快晴。安眠常人と同じ」と記した。東京へ帰る日が近づいていた。
 10月8日から日記は別の手帳に移った。「数へると明後日は東京へ帰る日也。うれしくもある。又嫌でもある。帰りたくもある。帰りたくもない。現状は余程の苦痛でなければ変る事を敢てし得ないものである。」
 漱石がじっさいに東京に戻ったのは明後日ではなく、3日後の11日で、その日は修善寺に来たときと同じく雨だった。馬車の外の景色は、雨にもかかわらず目に皆新しく写った。もっとも目を引いたのは稲の色だった。 漱石は手帳にこう記している。

 「竹、松山、違和、木槿、蕎麦、柿、薄、曼珠沙華、射干、悉く愉快なり。山々僅かに紅葉す。秋になつて又来たしと願ふ。」

20030817




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