「二郎、今朝一寸あの昇降器へ乗って見ようじゃないか」と兄が突然云った。
 「行人」の兄が、弟をこんな風に誘う。これに対する弟の反応は、次のような奇妙なものだ。
 自分は昇降器へ乗るのは好いが、ある目的地へ行けるかどうかそれが危しかった。
「何処へ行けるんでしょう」「何処だってかまわない。さあ行こう」
 漱石は明治四四年八月十四日、実際にこのエレベーターに上っている。場所は和歌山県和歌の浦。絵葉書に写っている明光台の昇降機がそれだ。
 階上にはプラットフォームがあり、簡素なベンチも見える。日覆いの布がひるがえっている。高く組まれたシャフトの向こうに、海と山が垣間見える。単色に彩色されて、空と山、山と海の区切りは書き割りのように見える。写真絵葉書なのだが、真を写しただけではない、どこか別の世界の気配がする。

 堀覚太郎「エレベーター」(建築学会パンフレット2−1号/昭和三年)によれば、
 (明治)四十三年十月には和歌浦奠供山即ち浄瑠璃で有名な和歌浦の名所下り松の一地域に望海楼主中尾氏の計画に基き娯楽余興を目的とする乗客用の昇降機の設置を見た、設計製造者は黒崎商会の由、この計画は成功せず、大正六年六月に撤去された。
 とあり、このエレベーターが短命だったことがわかる。
 当時、エレベーターは交通手段と言うよりは、「娯楽余興」のためのもの、つまりは見世物だった。明治末期、エレベーターはいまだに博覧会の呼び物であり、その上昇感がことさらに喧伝された。
 「行人」の弟の反応が奇妙なのは、昇降器を、娯楽遊興の道具と割り切れていない点にある。なぜ昇降機に乗った後の行き先を気にする必要があるのか。
 そしてさらに奇妙なことには誘い手である兄自身もまた、この昇降機を余興として楽しんでいる様子がない。
 兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起した。
 「牢屋みたいだな」と兄が低い声で私語いた。
 「そうですね」と自分が答えた。
 「人間もこの通りだ」
   明らかにこの兄弟は、何らかの予感を共有している。予感だけが共有されていて、予感の示す先は共有されていない。そして階上の掛け茶屋で、兄は弟の予感に形を与え始める。「何処か二人だけで話す所はないかな」
 エレベーターに乗る。予感が共有される。時間と場所が飛躍し、乗り手は異世界へと送り込まれる。降りた先で予感が形になる。告白が行われ、事件が起こる。「行人」のエレベーターは乗る者から行き先を隠し、そのことでこの世から隔絶し、あの世へと連れ出す装置となっている。

 村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」でも、はたまた「ガラスの仮面」でも「ゴルゴ13」でも「金田一少年の事件簿」でも読めばすぐにわかる。エレベーターが小説やマンガの中に出てきたら、それは、何かの予兆である。漱石はエレベーターの持つこうした魔力にいちはやく気づいていたのだ。

20010123  


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