萩原朔太郎にとっての立体写真と「永遠の『錯誤』」

 表象文化論学会で、前橋の地にふさわしく萩原朔太郎に関するパネルディスカッションが行われた。わたしはけして萩原朔太郎の熱心な読者とは言えないが、立体写真とパノラマに関心を寄せるものとして、朔太郎について改めていろいろと考えさせられた。

 とくに栗原飛宇馬氏の「手品」と立体写真に関する発表は、朔太郎にとっての立体写真のあり方を考え直させる内容だった。

 朔太郎がただの「写真」ではなく「立体写真」に魅せられるのは、ひとつにはその奥行き空間ゆえだろう。そしてその奥行き空間とは、両眼に異なる像を見せることによって表される一種の「手品」の産物なのだが、この手品に朔太郎は「郷愁」を感じる。栗原氏はこの点についてこう指摘している。「朔太郎はまた、通常の平面の写真を「リアリスチツクであればあるほど、いよいよ僕の心の「夢」や「詩」から遠ざかつて」いくものと述べている。換言すれば、彼が立体写真に見る〈郷愁〉とは、この世のどこにもないものなのだ」(栗原飛宇馬「萩原朔太郎の愛した〈不思議〉——手品・乱歩・『詩の原理』」)。

 ここで、通常の写真と立体写真との比較において、通常の写真は「リアリスチツク」であるがゆえにむしろ夢から遠ざかるのはわかるとして、立体写真はなぜ「この世のどこにもないもの」と関係するのか。常識的に考えれば、立体写真こそ、写真以上に「リアリスチツク」な3D空間を提供するものであり、夢から遠ざからせてしまうものではないのか。

 このあと、栗原氏は朔太郎の「坂」の次の一節を引いていたのだが、これがまさに朔太郎にとっての立体写真のあり方を表すものだった。

 「だから我我は、坂を登ることによつて、それの眼界にひらけるであらう所の、別の地平線に属する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれを呼び起す。」「愚かな、馬鹿馬鹿しい、ありふれた錯覚を恥ぢながら、私はまた坂を降つて来た。然り——。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の『錯誤』にすぎないといふことを。」

 ここで、朔太郎は坂のある風景じたいではなく、坂の「向うにある風景」を「永遠の『錯誤』」と呼んでいる。これはまさに、立体写真でわれわれが体験する、あの感覚、たどりつけそうでたどりつけない曲がり角の「向う」のことを思わせる。

 立体写真に耽溺した者なら、朔太郎の言う「この世のどこにもないもの」が立体写真のどこにあるのかを言い当てることができるだろう。立体写真の映し出す立体的な街路、見る者が思わず入って行けそうな街路の向こう側には、朔太郎が『荒寥地方』で書くような「散歩者のようにうろうろと」歩くことの出来そうな「物さびしい裏街の通りがあるのではないか」と思わせる。しかし、その「裏街」にわたしたちはたどりつくことができない。なぜなら、立体写真が映し出すことができるのは、あくまで2.5次元、カメラのこちら側から見える世界に過ぎないからだ。立体写真が坂を写すときには、そこにたどりつくことのできない坂の向こうの存在が示される。街路を写すときには、たどりつくことのできない裏街の存在が示される。それは、けして像として浮かび上がることがないがゆえに、わたしたちの「郷愁」をかきたてる。

 つまり、朔太郎にとって「永遠の『錯誤』」とは、立体写真の与える立体の世界そのものではない。それは立体写真によってもたらされる2.5次元の街路の向こう側にある、0.5次元の世界のことなのだ。

 このシンポジウムでもう一つエキサイティングだったのは最後の田中純氏のコメントだった。そこで田中氏は、朔太郎がしばしば言及する「戦場の静止したヴィジョン」や「現実を裏返したあと」のさらにその裏に表れる実在性について、パノラマやパサージュのさまざまなイメージを接続しながらその魅力を語る一方で、ヴァールブルクの「情念の定型」を引きつつ、そこには戦争の審美化やステレオタイプな西欧の強化の危うさがあることを指摘していた。

 そういえば、この日の熊谷謙介氏の発表では『青猫』の挿絵に用いられていた『万国名所図絵』の木口木版を取り上げ、その定型的な西洋図版の用いられ方に「地名の消去=場所の不定化」があることが指摘されていた。おそらく、木口木版化された風景には、通常の写真の「リアリスチツク」さから免れ、場所を不定化させる「隙間」があるのだ(それは、簡素化された輪郭ゆえか、それとも彫刻刀によって生みだされた「目」ゆえか)。西欧風景の木口木版、手品、立体写真。朔太郎は確かな「錯誤」を手に入れるためになぜある種の「模型的なもの(これは田中氏の表現)」を経由するのか。危うい定型をたどりながら、ただそれを審美することにつかまらずに世界を/世界に抜ける方法はあるのか。そういうことを考えながら、前橋から東京までの意外に長い時間をたどっている。

テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は

 テッド・チャン「あなたの人生の物語」の時制は、どこをとってもやり直しのきかない過去と、現在の喜びと、そこに重なる未来の痛みとに満ちあふれている。「わたし」の心は人類の逐次的言語の鋳型で形成されており、しかもエイリアンの目的的言語のパースペクティブでその心に起こることを想起するのだが、小説はまさに、この脱臼してしまった言語で書かれており、「あなた」という代名詞も「おとうさん」という名詞も未来に属していながら、想い出の対象になる。

 この作品の最後の3パラグラフの時制はひときわ美しいのだが、その、終わりから2パラグラフめはこうだ。

From the beginning I knew my destination, and I chose my route accordingly. But am I working toward an extreme of joy, or of pain? Will I achieve a minimum, or a maximum?

 巧妙にもこのパラグラフには、過去形と現在進行形と未来形があって、現在形がない。そしてこの疑問を主人公が思い浮かべるまさにいま、最後のパラグラフには、現在形しかない。

映画『メッセージ (Arrival)』 の言語感覚

以下は大いにネタばれを含んでいるので、映画を観てからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 『メッセージ』の雰囲気をおおよそ楽しんだ。

 色彩を抑えた、霧深い夢のような映像による構成、ヨハン・ヨハンソンの繰り返しを多用しながら聞き手の居場所を危うくさせる音楽はともに、この映画の持っている不思議な時間感覚を支えるものでだった。その霧の中に現れる物体やヘプタポッドの設計(やけに威力のある吸盤も含めて)も納得がいくものだった。

 にもかかわらず、この映画のある点でどうしても納得がいかなかった。それも物語の根幹に関わる決定的な点で、だ。それはヘプタポッドの「文字」の扱いである。

 この物語のもっとも重要な点は、ヘプタポッドたちの文字を解読する作業を通じてルイーズの時間認識が変化してしまう点にある。彼らの文字は、人類の言語のように、はじめから読み下して最後に到達する、という風には書かれていない。むしろ「目的論的」に、全体から細部に向かって読み込まれていくような言語だ。ルイーズはこの文字の読み方を通して、未来を見通してしまう言語感覚を身につけ、時間の感覚そのものまでを変容させてしまう。このような文字をテッド・チャンは「表義文字」と読んでいるが、墨のように一気に吐き出されて形をまとう文字デザインは、この「表義文字」を表すのにふさわしい創意だと思う。

 ところが、映画では、せっかくのヘプタポッドの表義文字を、あたかも「表意文字」のごとくパーツにばらしてしまう。しかもルイーズはヘプタポッドと話すにあたって、そのパーツを通常の言語のごとくシーケンシャルに組み合わせてしまう。何よりわたしが決定的についていけないと思ったのは、映画の後半で、ヘプタポッドのことばが字幕で翻訳されて表示される場面で、このように安易に翻訳されるともう、彼らは、時間軸に沿って生きる人類のように時間軸に沿って話す、ただの人類並みの生き物にしか見えない。

 「あなたの人生の物語」は、われわれが用いる言語と異なる時間構造を持った言語の話であり、それを映画化することは、とりもなおさず、映画の時間構造じたいを揺るがしてしまいかねない無謀な試みになりえたはずである。この点において、『メッセージ』は、ルイーズ母娘のエピソードとヘプタポッドとのやりとりを巧みに繋ぎながらこちらの時間感覚を揺るがしてくれるものの、そこで扱われている言語感覚は(残念ながら)ごく穏当で因果論的なものだった。

 それでも、わたしはラストのエイミー・アダムスの顔、未来を見通しながら相手を抱きしめるその陰影に富んだ表情に、報われた気がしたのだけれど。

* あとでつらつら思い出してみると、ルイーズは最後のほうで、パッドでパーツを組み合わせるのでなく、壁に直接手を当てて文字を描くということをしていた。あの演出はもしかすると、ルイーズが因果論的な書法から脱却して、ヘプタポッドたちの書法を身につけたことを意味していたのかもしれない。とすると、ここでの感想はちょっと書きすぎだったかもしれない。

Please, Please, Please, Let Me Get What I Want by Morrissey

訴える空に
静かに落ちてくんだ ずっと
つらい
So please please please
切に切に切に
切にお願いします
今夜

花は咲きたい 人は歌いたい
静かに落ちてくんだ ずっと
つらい
後生ですから
切にお願いします
一生に一度のお願い
一生に一度のお願い

(2015, 試訳:細馬)

「そっか」を開く

 5/13(土)の『ひよっこ』は、有村架純(谷田部みね子)と宮本信子(牧野鈴子)の共演という点でも感慨深いものがあったが、ドラマとしておおいに見ごたえがあった。

 この回がよくできてるなと思ったのは、みね子とすずふり亭の面々が会うのが「休み時間」とされていたことだ。

 どのテーブルにもクロスが敷かれ、紙ナプキンと調味料が置かれ、花が飾られている。店はいつでも、客を迎えることができる状態にある。そのテーブルの一つに、みね子と店のオーナーである鈴子、そして省吾が座っている。帽子こそしていないが、着ているのはコック長の服だ。みね子は、二人のプライヴェートな客なのだが、回りの環境からすると、まるでレストランの客のようでもある。

 この、プライヴェートと営業、どちらともとれる、どっちつかずの環境を使って、会話は進む。

みね子:あ
鈴子:えっ?
みね子:あの、いまお店って、休み時間ですよね
鈴子:うん、ふふ
みね子:そっか…レストランはそういう仕組みになってんのがぁ、そうか。

 みね子は「そっか」と独り合点するのだが、省吾は「休み時間ですよね」ということばからすばやく察してこう言う。

省吾:ん? あ、なにがいい? 何でも作ってやるよ
鈴子:うん。何でもいってごらん。

 省悟と鈴子の「何でも」ということばには、レストランの客相手ではない、プライヴェートな相手に対してならではの気前のよさが表れている。そして、みね子は、彼らのその親切なことばから、自分がプライヴェートな客のままご馳走になるかもしれないことに気づいて「あ、ちがうんです」と言う。

みね子:あ、ちがうんです。あの、初めてもらったお給料で、こちらにきて、自分のお給料で食べんだって決めてで、楽しみにしてたんです。
鈴子:そっか…

 みね子の説明を、鈴子は感心したように受けるのだが、一方の省吾の決断はとても速い。この二人の絶妙の間合いを見せるように、ショットは三人が入るように切り替わる。

鈴子:そっか…
省吾:特別にみねこちゃんのために、(ぽん)店を開けよう。
みね子:え?

 店を開ける、というそれなりに特別な決断をするとき、常人なら「そうか…」と一度タメを作ってから「そうだ(ぽん)特別にみね子ちゃんのために、店を開けよう」と来るところだ。ところが、この場面で省吾は、まるで鈴子の「そっか…」を、自分が感心する時間であるかのように少し上体を起こしてから、さっと上体を前に戻してからいきなり「特別に」と切り出す。そのため、鈴子と省吾のせりふは、一人の発した一続きのことばのようで、二人は息のあった親子なのだなと思わせる。

 そして、省吾がテーブルをぽんと打つしぐさは、ことばの冒頭ではなく、「店を開けよう」の直前に置かれている。そのおかげで、こつんと鳴るテーブルは、思いつきを発表する合図ではなく、まさに「店を開ける」合図となる。この絶妙のタイミングのおかげで、みね子が「え?」と驚いた次の瞬間には、もう店は特別に開いており、みね子はメニューを見て思案している。

 では、このやりとりによってみね子はもうすっかり「レストランの客」となったのかと言えばまだそうはいかない。みね子の手持ちの金は限られている。
 
みね子:あの、ライスって、ごはんだけですよね?ヘヘヘヘ
鈴子:そうだよ
みね子:そうですよね

 省吾がここで、ちょっと口を挟みかける。

省吾:値段気にしないでもさ
鈴子:い・い・か・ら
省吾:そうだね

 ここで、省吾はみね子をいったん「値段を気にしなくてもいい客」、つまり「ひよっこ」扱いしようとするのだが、鈴子の「いいから」という制止によって、みね子は再び「レストランの客」扱いされる。

 その人が何者であるかは、その人自身によってのみ決まるのではなく、その人が他人とどうやりとりをするかによって決まる。このドラマは、みね子が何者でなっていくかを、他人とのやりとりによって明らかにしようとしている。それも、0か1かではなく、とても微妙なやり方で。

高子:(小声で)予算いくら?
みね子:50円くらいしか使えなくて
高子:わかった。じゃあ…(ビーフコロッケ60円を指し)いいと思う。
みね子:あ、じゃ、これにします。

 みね子は、安い単品を一つだけ注文する客となる。おそらく通常の客なら、まずそんな注文の仕方はしないだろう。けれど、ウェイトレスの高子もコック長の省吾も、そして厨房の元治と秀俊も、そのたった一皿の注文を「ひよっこ」ではなく「一人前」として扱う。

高子:三番さん、ビーコロワンです。
省吾:あいよ、ビーコロワン!
元治:ビーコロワン!
秀俊:ビーコロワン!

 リレーのバトンを渡すように律儀に注文が伝達されて、厨房の面々はビーフコロッケづくりにとりかかる。一人前の衣、一人前の付け合わせ、一人前のドビソース。そしていよいよ、目の前に現れたビーフコロッケをみね子は箸で二つに割り、そのかたわれを一口で頬張る。

みね子:なんだこれ!うめえなあ!
鈴子:そっか!

 「そっか!」というひとことを言うとき、鈴子は「そっ」とすずふり亭の面々の方を振り返ってからすぐに「か」でみね子の方に向き直る。

 みね子のひとりごとであった「そっか…」を真似るように、鈴子は「そっか」とみね子の決意に感じ入り、みね子とすずふり亭の面々を橋渡しするように「そっか」と言う。「そっか」が他人とのやりとりに開かれていき、食事の前と後を比べると、みね子はずいぶんと大人になったように見える。鈴子が続けて言うことばは、ちょっとだけ、『あまちゃん』の夏ばっぱを思わせる。「おいしいよねえ、自分で働いて、稼いだお金で食べるのはさ」。

映画「風の波紋」のこと

 年配の女性が一人、屋根の上で雪かきをしている。最近の人がよく使うスノーダンプではなく、彼女の体躯に見合ったスコップで。しかし、そのスコップにどっかり盛られた、けして軽くはないはずの雪を彼女が振り返りざまにあざやかに放るとき、そしてカメラが放られる雪を間近で捉えてその重さを表すとき、彼女の足腰のキレのよさはただならぬことがわかる。雪に割り入れられるスコップの音、投げられる雪塊のどさりという音が捉えられ、目だけでなく耳もまた、その所作に驚かされる。
 彼女は軒先の方を見て「あのハナサキまで」と雪堀りの範囲を言う。そうか、ここは雪深いだけでなく、突端を「ハナサキ」と呼ぶ土地なのだ。

 このように映画は、生活を説明することばを費やすかわりに、暮らしの中にいる人の所作をとらえ、その人のことばによってそこがどんな土地かを浮かび上がらせる。

 ことばは、カメラのこちら側に人がいなかったなら語られることはなかっただろう。しかしそのことばは、カメラのこちら側に聞こえがよしに放られているわけでもない。体を動かしながら、その動きに合わせてぱっと息を吐くように、そばにいる人に届くだけの声を出す。その声がドキュメンタリーのモノローグになっている。

 茅の中から一本の針がずぶりと現れる。突き刺されたその針の勢いにはっとすることで、観る者はここに突き刺す側と突き刺される側があり、突き刺された側は「もうちょっと下(しも)」と大声で答えることによって突き刺した側に針のありうべき位置を知らせるのだと知る。そして、茅葺き屋根を葺く作業には針を用いて茅を縛る作業があり、そのためには屋根の裏表に人が立ってこのような協働作業を行うことが必要だと知る。そこで起こっていることを映像の手がかりと、観るこちら側に立ち上がる民俗学的関心とによって、一挙に理解する。これは、映像による民俗学的記述ではないだろうか。

 束がくるりと一回転して刈った稲が結わえられる。ぎっちり縛った結び目に余りを割り入れる所作から、束ねられた茅の意外な固さを知る。茅の束を打ち込む槌音の高さから、茅葺き屋根の固さがわかる。

 まず所作のあざやかさに目と耳が惹かれ、そこから行われる作業の意味に気づく。交わされていることばから、そこで用いられる語を知る。「風の波紋」の民俗学は、そんな順序を踏む。

 権兵衛さんという人がはじめて画面に現れたときにも、そこで起こっていることが何かを察するより早く、まずこの人の所作に魅了された。権兵衛さんは、雪かきをしているボランティアの羽鳥さんに声をかける。そのとき、権兵衛さんは、スノーダンプから雪をおろす手つきの違い、水平の場合、垂直の場合の違いを あざやかに対比してみせたのだ。こうすっと持っていかれっから、身を。こうだよ。「身を持って行かれる」という言い方があるんだ。そして、この人はなんて豊かな動作を持っているんだろう。

 そう思ったら、続く場面で、権兵衛さんは、「田植え職人」の所作とそうでない人の所作とを、これまたあざやかにやってみせた。見えない苗を口に一束、二束くわえて、目にも止まらぬ速さで植えてから口から次の苗をとるしぐさ。それから今度はそれと対照的な、一束一束を植えていく非職人のゆっくりとした動き。じつはことばとしては語られないけれど、その非職人のゆっくりとした植え方こそは、この映画の主たる語り手でもある木暮さんの植え方なのだ。
 そのゆっくりとした、しかし確かな植え方を、映画は何度もとらえている。終盤近く、木暮さんは自身の田植えを「しょせんニセモノだからね」と自嘲しながら、それでも「私のキャンバスのようなもんだから」と苗を植え続ける。権兵衛さんによって実演される速さも木暮さんの遅さも、この土地の田植えのあり方なのだ。

 一つ、とりわけ印象に残っている場面がある。雪深い山をかんじきを履いて歩いて行く茸狩りのシーンだ。
 深く積もって凍った雪は、地上からは届かない、縦横無尽の渡りの空間を広げる。地上の人の手が及ぶことのないその高さに、ヒラタケがあちこちシグナルのように生えており、一行は凍ったそれをぽきぽきともいでゆく。
 カメラはふと一行から離れ、彼らの雪渡りを上から俯瞰する場所に留まっている。突然、画面をウサギが横切る。その、広々とした雪上を渡っていくウサギの軌跡、そしてウサギめがけてすばやく放られる鎌が虚しく雪にささるさくりという音の遠さといったら! 
 この映画の冒頭では、宮沢賢治の「雪渡り」の寸劇が演じられる。わたしは長いこと、「雪渡り」のことを幻燈会の童話だと思っていたけれど、そこで記されている「すきな方へどこ迄でも行ける」というのがほんとうはどういうことなのか、じつはこの映画を観るまで知らなかった。広々とした雪原に点在するヒラタケと駆け抜けるウサギと放物線を描く鎌。この場面によって、賢治の「雪渡り」のイメージはすっかり新しくなった。

 ここに記してきたことは、まだまだ、この映画の魅力のごく一端に過ぎない。震災をはさむ、五年に及ぶ長い撮影期間のあいだに起こったいくつもの何気ない奇跡の瞬間が、この映画には詰まっている。とても書き尽くすことはできない。

 ただし、どの一瞬にも、これ見よがしに迫ってくるような押しつけがましさはまったくない。はじめに記した年配の女性は、雪堀り(雪かき)が一段落すると屋根の上でせわしなくタバコをふかしはじめる。その所作によって、先ほどまで感じられていた雪の重みがふいに煙の軽さになったようで、そして彼女はまるでタバコをふかす場所をこしらえるためにあんなに力強くスコップを振るっていたかのようで、会場のあちこちから笑いが起こった。
 迫力のある映像、しかめつらしい深刻さを連ねる代わりに、見る側にスコップの雪のようなユーモアを放り、その雪の一撃でこちらの感度を研ぎ澄まさせる。そこに、人それぞれの暮らしの陰影が自然と浮かび上がる。『風の波紋』のユーモアは、そのような機知に満ちている。

 これは現代の「北越雪譜」ではないだろうか。

(細馬宏通: 2016.4.16に記したものを再掲)

おみくじラッキーさん

ハナミズキ
こんなに さくなんて
すこしここにいて
へやいっぱいにして

ハナミズキ
そのかげを おくれよ
そらを もやせ
きみ わたしのおみくじ

ハナミズキ
いかないで いて
いかないで
いかないで

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

きみとわたし
みわたせばふたり
たかくたかく
つまさきもとどかない
こだちよりたかく

みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり
みんなおいてきぼり じゃまたね
みんなおいてきぼり

すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
ひいたわたしラッキーだ
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん
すごいなあ すごいなあ
きみ わたしのラッキーさん

 

(“You’re my fortune cookie prize”
                                    by Beat Happening)

ナボコフ的作家としてのクリス・ウェア

 現代のコミック界の中でナボコフ的な現象を扱っている作家として、クリス・ウェアを挙げてみよう。ウェアは、一つ一つのコマに対して小さな手がかりを描き加えながら、その場面の時代や環境を変化させていくことを得意としている作家であり、あとで述べるようにコマの順序や配列についても自覚的な作家だが、彼はナボコフの「ロリータ」について、インタビュー(Ware 1997)で次のように述べている。

 「ロリータに次のような一節があります。ハンバート・ハンバートは前庭で起こった事故に出会い、彼の目に映る次から次へと起こるできごとの積み重なり accumulation が生みだす効果を記そうとします。それには3,4段落を費やさねばならないのですが、彼はそこで自身の扱うことばが、そもそも同時性を欠くメディアであることについて弁明しています。もちろんこれこそは、コミック・ストリップでも起こりうることです。もっともナボコフほどおもしろくはならないでしょうけれど。」

 この一節とは、ハンバート・ハンバートがシャーロットの事故を目撃した第23章で行われる次の弁明のことだろう。

 一瞬の視覚的できごとの衝撃をことばの連鎖に置き換えねばならない。しかしページ上にその事実の積み重ねていくことは、実際のひらめき、印象のくっきりとした統一性を損なってしまう。 I have to put the impact of an instantaneous vision into a sequence of words; their physical accumulation in the page impairs the actual flash, the sharp unity of impression(”Lolita” Ch. 23)

 ここでおもしろいのは、クリス・ウェアが、ことばの(そしてコミックのコマの)連鎖がもたらす「統一性の損ない」を、欠点としてではなく、むしろ彼のコミック・ストリップの根本的な特徴としているところである。
 ウェアのコミックのコミックの大部分は室内劇であり、しかも登場人物の動きは少ない。物語を動かすのは、室内のロングショットとクローズショットの連鎖であり、クローズショットはしばしば登場人物や語り手の注意や想念と連動している。コマに捉えられるのは、ごくありふれた調度や小物であり、ときには壁にかかった絵のごく一部や、窓にとまっている小さな虫の行方をコマは追う。そのため、読者の注意もまた、室内のごく一部へと絞り込まれるのだが、そのことによって、読者は環境の中で変化するものと変化しないものを知り、室内の細部に埋め込まれた人の気配や行為の来歴を読み取る。そして、限られた手がかりから物語を捉えようとしたとき、突然、別の時代、別の人物によって、瑣末に見えたそれら環境の一部が扱われているのがコマで捉えられ、物語は更新を迫られる。こうした手がかりは、物語の離れた箇所に点在しており、読者はページを後戻りしては再読を繰り返しながら読み進めることになる。

 彼の代表作である「ジミー・コリガン」は、祖父ジェイムズの時代とジミーの時代の二つを往復することで更新される物語であり、近年の大作「ビルディング・ストーリーズ」は、一つの古いアパートに棲まう住人達の振る舞いを追うことで、人物たちとアパート自体の来歴を次第に明らかにしていく物語だが、いずれも、コマ運びによって読者の注意を細部へと誘い、ある時点でその細部の意味をがらりと更新して見せる点では共通している。できごとの連鎖によって読者の注意を限りながら導いていくその手つきは、まさにナボコフの作品の特徴とよく似ている。

 もう一つ、ナボコフを彷彿とさせる場面として、「ビルディング・ストーリーズ」(Ware 2012)の一節を紹介しておこう。大判の箱に収められたいくつもの冊子によって構成されているこの作品の中には、「SEPTEMBER 23RD, 2000」という一冊が含まれている。これは、作品の舞台であり主役でもある古いアパートを中心として、住人達のとある一日を描いたものなのだが、ウェアはその一日を物語る前に、アパートと住人たちの来歴を三ページのイントロダクションとして描いている。その一ページには、アパートを斜め上から各部屋の構造を見渡すように描いており、それぞれの壁や床、調度には、「886の叫び」「217の拳」「487のニックネーム」「6の自死のことば」といった書き込みを記すことで、このアパートに長い間積み重ねられた無名の記憶を数値化し、圧縮している。その上で、これらの壁や床、調度に囲まれたたった一日の出来事を物語り始めるのである。アパートの壁は、登場人物たちの向ける注意に導かれ、壁にかかった時計、その時計が示す唯一の時刻、カレンダー、カレンダーの絵柄の細部、写真立て、その写真に写った人物へと、その細部を開陳していく。その結果、イントロダクションで数値化された、アパートの来歴を俯瞰する記憶は、一人の住人に関わる数値化されえない細部によって上書きされる。

 このような手つきは、40年の結婚生活を数値化する「青白い炎」の以下の一節を想起させる。

We have been married forty years.
At least Four thousand times your pillow has been creased
By our two heads. Four hundred thousand times
The tall clock with the hoarse Westminster chimes
Has marked our common hour. How many more
Free Calendars shall grace the kitchen door
(“Pale Fire” [275-280])

 ここで数値化されているジョン・シェイドの生活は、序文とコメンタリーを記しているチャールズ・キンボートによって注釈され、さらには彼らの人間関係が明らかにされることによって幾重にもふくらみ、再読を促される。

 そして「ビルディング・ストーリーズ」もまたこうした特徴を備えている。箱に収められた冊子どうしは、異なる場面の異なる登場人物を一人称としながらお互いの物語を参照しあうように描かれており、ある冊子を読むことで、既読の冊子を再び開かされ、物語の意味を更新させられることになる。そして、こうして編み込まれていく読書体験そのものが、一つのアパートの形を帯びてくるのである。

 

(ナボコフにおける視覚的イメージの変容論を書く際に書いた断章 2017.1)

山の端を触る

 3月に広島の江波を訪れてからというもの、「この世界の片隅に」の読み方、態度が変わってしまった。何というか、少し沈潜気味になり、それでいて少し快活になったのだ。

 江波山の端がどこかを知り、その山の端をなでることができるようになり、海神宮の位置を知り、山の端を海が洗っていたことを知ることで、わたしにとっての広島の海が、少し近くなった。気象台の場所を知り、その屋上で風を受けることで、原民喜を読むときも、大田洋子を読むときも、城山三郎を読むときも、以前とは違う空気をかぎ取るようになった。なぜか、と問われても簡単には答えられない。ただ、江波山の端で誰かが走りはじめ、あるいは誰かの船が動きはじめ、確かな空間の中でその速さが感じられるようになった。それだけのことで、物語の読みは変わってしまう。

捜すこと

混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。

(原民喜「廃墟から」より)