ハミングに気をつけろ




姪がハミングをするシーンのサウンドスペクトル


ハミング:誰かの声が思考する

ヒッチコック「疑惑の影」に奇妙なシーンがある。

家族が食卓を囲んでいる。
姪が、この映画の鍵である「陽気な未亡人(Merry Widow)のワルツ」をハミングで口ずさんでいる。

[姪の半身のショット。字幕が出る。]
姪:「気になるのよ 歌の題名が思い出せないの」
母:「ワルツよ」
姪:「題名を教えてよ」
[叔父のショット。]
姪:「このメロディーが頭に浮かぶ時」
[姪のショット。]
姪:「誰かほかの人のハミングが聞こえる感じよ」
[叔父が下を向いて何かを避けるように食べるショット。]
姪:「曲名わかる?」
[叔父、姪のほうを向く)


姪は、メロディーを思い浮かべようとして「誰かほかの人のハミング」が聞こえてしまう、という奇妙な現象について語っている。もちろん、特定の誰かの歌声を思い浮かべるとき、その人の声が聞こえるような気がすることは誰にもある。けれど、たとえば、バッハの器楽曲を思い浮かべようとして、思いがけずそれがハミングとして聞こえたらどうか。それも、あらかじめ誰それのハミングとして聞こえるのではなく、まず、ハミングとして聞こえ、それからそれがどこの誰だったか、遅れてわかるとしたらどうか。そのとき人は、自分の頭の中が他人に占拠されていることに気づかされて、恐怖するのではないか。

この怖さは、ショットとの関係によって、より増幅される。「このメロディーが頭に浮かぶ時」と語る文字列は姪だが、写っているのは叔父だ。そして「誰かほかの人のハミングが聞こえる感じよ」で、姪のショットに切り替わる。ここで起こっているのは、被写体の人間が字幕の語り手ではないという、映画にとってごくありふれたできごとに過ぎない。しかし、ここで姪が話しているのは、自分の頭の中のできごとが他人の声によって頭の中に浮かぶ、ということについてなのだ。続くショットで叔父が下を向き、必死で避けているのは何か。それは、自分の頭の中の思考、それも他人の声によって浮かぶ思考ではないのか?

この後、姪が曲の名前を思い出して「メリー・・・」と言いかけたとき、叔父の顔のショットが入り、次に手元のグラスがアップになって転がされる。「メリー・ウィドウ」のウィドウということばを避けようとして叔父はグラスを倒した。一見、わかりやすい行動だが、考えると妙だ。たとえ姪が「ウィドウ」と口にしても、そのことで叔父のウィドウ(未亡人)殺しがばれるわけではない。にも関わらず、なぜ叔父は「ウィドウ」ということばを避けるのか。それは、ウィドウ、ということばが、姪の声で自分の頭の中に鳴り響くのが耐えられなかったから、他人の声によって考えることに耐えられなかったから、ではないだろうか。

ハミング:メディウムの誕生

日本語字幕では、じっさいのセリフの意味が一部省略改変されているが、それを見てぼくが感じたこと自体は無意味ではないので、あえてここまで日本語字幕を手がかりに書いてみた。いっぽう、英語のセリフをたどっていくと、ここまで見たのとは対照的な世界が広がっていることに気づく。姪はじっさいには次のようなことを語っている

[叔父のショット]
姪:You know it's a funniest thing sometimes I get it tuning my head like that 'nd,
おかしいんだけど、
こういう曲を私の頭の中で鳴らすでしょ、すると
[姪 のショット]
姪:pretty soon I [叔父の方を向いて]hear somebody else hamming it too. I think tunes jump from head to head.
すぐに誰か他の人が同じ曲をハミングし出すの。
曲って頭から頭へ飛び移るんじゃないかしら。


姪はまず自分の頭の中のできごとについて語り、次にそれが他人の頭にジャンプすることを語っている。この姪の一続きのセリフの間に、ショットは叔父から姪に移っていることに注意しよう。姪が自分の頭の中を語っているときは叔父の映像が写っている。そして姪が他人の頭の中を語っているときは、姪自身の映像が写っている。つまり、ここでは、ことばと映像の間で自他が交差している。姪の「私の頭の中」ということばが、叔父自身のことのように映る。そして「他の人が同じ曲をハミングし出すの」ということばが、姪自身のように映る。

そして、このシーンが怖いのは、その直前に姪がハミングをしている点だ。そのハミングの原因が叔父の頭の中にあるように、姪は叔父の方を向いて語る。まるで叔父が頭の中でメリー・ウィドウの曲のことを鳴らしたのが原因で姪がハミングを始めたかのように、ことばと映像が絡み合う。姪は、自分ではそれと知らずに、叔父の頭の中をことばにしようとしている。

だからこそ、叔父はグラスを倒さなければならない。さもなければ、姪は巫女のように、叔父の考えをすべてことばにしてしまう。

恐怖はどのようにやってくるか

声の前に差異がある。声になる前に、できごとは起こっている。しかしなお、できごとに声で気づかされることがある。できごとが声に遅れる。起こってしまったことを声で知る。見知らぬものに出会うことは、恐怖の始まりに過ぎない。自分が知っていることに、遅れて気づかされることこそ、恐怖の本番なのだ。なぜなら、気づいたときには、もうとりかえしがつかないからだ。

そして、とりかえしのつかないことを気づかせるのは、自分ではない、他人の声だ。そのように恐怖は、他人を必要としている。







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