The Beach : July 2007


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絵はがきの時代 浅草十二階 活動としての文 1919 919 足穂特集 大友良英特集
gangpol & mit ごあいさつ 系図 はちみつぱい Brazil

20070731

 採点、会議。夜、京都へ。中間さん、本郷さんと本の打ち合わせ。重要な用件は5分で済み、あとは海の幸に舌鼓。


20070730

 埼玉大学ステーションカレッジで、「質的研究の現在---ヒューマンケアをめぐって」。以前、八重洲の地下にあったステーションカレッジは、この春に移転して、サピアタワーというビルに入った。このタワーには東大、京大、そして、関大、関学、立命、甲南など、関西の大学も多く入っている。セキュリティチェックがえらく厳しいので驚いた。

 木下先生の話を伺うのは、去年の日本心理学会のときに続いて二度目だが、今回は、方法論よりもむしろ実践場面での話で、質的研究がいかに現場につながれているかがいっそうよくわかった。木下先生によれば、データ収集や分析、あるいは分析結果の応用において、「研究者は社会関係の中にLockされる」。いいことばだな。後半はやまだようこ先生による、ライフサイクルモデルの話。

 田中博子先生と久しぶりにお会いし雑談。田中先生の物腰の柔らかさに接していると、不思議とアイディアがいろいろ湧いてくる。鶴田さんからジェンダー研究の話をあれこれ伺う。
 新幹線で彦根に戻る。


20070729

 ガビンさんから久しぶりに電話がかかってきたと思ったら、「今日の結婚式、場所どこですか?」なーにをやってんだか!
 宿でギターを練習。夕方、dotimpactさんの結婚パーティー。「ドットインパクト」という、プリンタの仕組みを説明する唄をはじめ、三曲ほど弾き語る。いまだ、ギターの弾き語りというのは慣れなくて、指を押さえるのに必死という感じ。折りしもそぼ降る雨。お二人がきちんと座って聞いてくださるので、緊張しつつ雨中歌唱。
 その後、半地下のカウンターでイセカツさんやアラマキくんと話すうちに、かぱかぱ飲んでしまう。

 帰りはざあざあ雨。地下鉄駅まで足を早める。そこからは地下。原宿駅と明治神宮前が地下でつながってるとは知らなかった。これまでこのあたりを地下で歩こうと思わなかったせいもある。
 急に、名前のない長い地下道を歩いているような奇妙な気分になる。抱えている大きなギターが、見知らぬ、しかし近しい用事のカタマリのように、体にしっくりくる。今日はギターを忘れないだろうな、と思う。説明のつかない情動がひと連なりになっているときは、うまく思い出せる。
 宿に戻り、エレベーターに乗ってフロアに降りたら、階を間違えているのに気づいた。何かをうまく思い出せるときには何かを忘れている。不思議なバランス。


20070728

偶然と試行

 姫路忘れ物センターから届いたばかりのギターを持って東京へ。電車に乗るたびに、忘れ物をしないか気が気ではない。気が気ではないが、寝不足につきあっという間に寝てしまった。それで、降りるときにころっと忘れることがあるから注意せねばならぬ。

 地下鉄神保町の駅を上がると、まさに目の前を藤本由紀夫さんが通り過ぎるところで、あーっ、と指をさし合う。よりによってなぜ東京のこんなところで。もちろん、本が好きだとか、ときどき東京に来るとか、いくつかの要因はある。が、それだけのことでこんな風にふと会ってしまうことがありうるのだろうか。
 誰かと偶然出会うというできごとには、確率の授業でやるような問題にはない、奇妙な不思議さがある。
 少なくとも、これは、袋から玉を取り出して赤白を判定するような、試行の定義された問題ではない。日々、移動をし続けている人どうしが、いつどこで偶然会うか。このような問題では、何が試行かという区切りを入れるのが難しい。たとえば、一日という単位をとっても、たかだか一年365回の試行で、広い世界のどこかで、誰かと偶然会えるような気がしない。約束しても会えないことだってあるのに。
 出会いでは、会ったという事実がハイライトされて、そこから逆に、これはいったいどんな試行だったんだろう、と、考えていくようなところがある。Aさんのことをずっと考えて生きているわけではない。でも、Aさんと出会うことで、Aさんのことを考え始まる。母集団から標本を採るのではなく、標本から母集団の存在じたいを考える。これは一日という偶然なのか。東京を歩くという偶然なのか。一生という偶然なのか。

 国立情報研で、身振りミーティング。斎藤先生の、大阪人ならではのプラクティカルな業界活動ノウハウ話が楽しい。高梨くんの発表は、他者の認知を利用する、という観点から、「意図」や「投射」という概念に疑問をつきつけていくというもので、ぼくはいつも「漏れ」について考えていることもあって、アイディアがまたいろいろ賦活された。まず、この夏に論文をいくつか書かなきゃね。

隅田川花火大会

 押上へ。隅田川花火大会。岸野組のブルーシートからは、街路の向こうにぱっくりと空が割れており、そこにまるで用意されたかのように花火がある。頭上で花火の上がる間も周囲への気配りを忘れない岸野さんのホスピタリティをありがたく思いつつ、しかし目は完全に花火に吸われていた。
 街に思い通りの風が吹く。隣り合わせた方が、次はリンクの妖精、次は夜空のエクスタシー、と花火のタイトルを教えてくださる。花火サイズに両足を広げた家並みの稜線。その上に大玉が弾ける。
 街を覆って、星座が崩れていくようだ。  


20070727

MLMI読書会

 京大の角さんの肝いりで、MLMI(Joint Workshop on Multimodal Interaction and Related Machine Learning Algorithms)の過去二年間の予稿を一気読みする会。なにしろ一年分で40本あるので、一発表二分、ppt書類一枚でその発表を見ていく。ひとつのジャンルが通観できておもしろい試みだ。普段はノーマークの工学系の論文に思わぬ関連性を見つけるのも楽しみ。
 ぼくはタイトルだけ見ていくつか担当したのだが、アプリの切り替えアルゴリズムや、統語チャンキングの自動認識などなど、ほとんど背景を知らない内容で、いささか手こずった。
 しかしおもしろいことに、工学系の予稿というのは、知らない人間が見ても一応は何をやっているのかわかるようにイントロからあれこれ定義を書かれているからすごいな。たとえば、対話タグには、セグメント化をしてから分類するか(sequential)、分類しながらセグメント化してしまうか(joint)の二通りある、と書かれていると、門外漢でも、ほう、と思う。


20070726

 ゼミゼミ試験ゼミ。これで採点を済ませば講義は夏休み。

Axel Döner、宇波拓、古池智浩、江崎将史@複眼ギャラリー

 夜、大阪へ。開始時間をとうに過ぎている。ざあざあ言う音がもれてくるので、複眼ギャラリーのドアをおそるおそる開ける。入口でそうっとお金を出し、何の音だろうと思ってのぞきこむと、アクセル・ドナーがほっぺたをふくらましたりへこましたりしながら、そのざあざあを吹いている。
 カエルだ。
 これはもう、カエルの息だ。
 休みなく続くその音は、おそらく、この世に底流している秘密がカエルの呼吸と化してこちらの耳に届いているのに違いない。  さらにのぞきこむと、奥には古池君がいて、ぷうぷうと屁のような音で応じている。荷物を置くのもはばかられる神聖なその取り合わせに立ちつくしていると、空調の音を止めるために冷房が切れているらしく、鏡の間に入れられた蝦蟇のごとく汗が滝のように流れ出てくる。まるで薬膳を食ってるみたいだ。
 およそ管楽器から出ているとは思えない数々の音を聴いて、ようやく終わり。これが1セット目。
 2セット目は宇波くんのギターと江崎さんのトランペットを加えたセット。時報らしきフレーズに始まり、ギターがさまざまな音色で単音を鳴らして、時間を構造化する、油断ならぬ曲。金管楽器が三人いるのだが、やってることが三人とも違い、ときおりモアレとマスキングで交差する。

 京都に。明日の読み合わせの準備。


20070725

 会議に明日の試験作り。期日前投票。パソコンを打っているとふうっと力が入らなくなる。早くも夏バテか。


20070724

 同じアパートの中井さんが朝から木を切っている。時折する鋏の音を聞きながら洗濯をして原稿を書く。三時、中井さんをお招きしてカフェ工船の豆で覚えたてのアイスコーヒーを淹れる。日暮れ前、大銀に夕飯を食いに行ったら、なんだか夏の宵がやってくるような気がしてついビールを頼んでしまう。トイレを借りたらそこは庭先で、屋根のあいだからは暮れなずむ空。


20070723

なんかコミュニケーションってさ

 コミュニケーションの自然誌研究会。串田さんの、新たな固有名詞(もしくは認識対象)を導入するときの微細なターン構造の話。「・・・って知ってる?」といった言い回しによって、相手の知識程度を確認するようなシークエンスが、導入時以降に発生する。
 今回はあまり触れられていなかったが、「ほら」「だから」「なんか」といったことばが先行する名詞には、どこか新しい話題のキーが導入されるような不思議な感触がある。このあたり、語用論ではなく会話分析の立場から、シークエンス分析してみるとおもしろいかもしれないと思った。
 「なにか」ということばには、もともと「なにか心に及ばずいとゆかしきこともなしや」というように、前の話にカウンターをばーんとかます感動詞的な使い方もあった(と、いま広辞苑を引いて気づいた)。もしかしたら、現代の「なんか」にも、そういう使い方の名残があるのかもしれない。

 「なんか」で始まる曲を作ろうかな。話題を導入するタイプの「なんか」で始まる曲は、聞いたことがない。「なにかいいことないか仔猫チャン」の意味の「なんか」ならいくつか思い出す。たとえば小沢健二の「犬」に入っていた、えーと、あれはなんだっけ(思い出せない)。あとは、ブルボンの味ごのみ。「なんかなーいなんかなーい、おかあさん」。あ、これは曲ではない。


20070722

「転校生 さよならあなた」

 朝、新宿ガーデンシネマにて、「転校生 さよならあなた」。これはしびれた。頭が泡立った。
 この身の動きが、他者の動きのように意識に先んじる。それに気づくとき、この世はあの世とつながり、あの世は確かにこの身の回りに、手触りをもって存在する。そこに、幽霊の居場所ができる。

 近くの世界堂で、裏表が空白のはがき用紙を買う。切手欄や郵便番号欄もこちらでデザインしたいので。意外にこの、裏表空白というのがその辺の店ではないのだ。
 そんな風にはがきを買いながらも、まだ映画を見た感触がまだ残っている。たぶん、なにかの幽霊の気配だ。また映画館に戻りたいなと思う。
 午後はまだ時間があるので、東京駅の近くで。

川島雄三特集@フィルムセンター

 「縞の着物の親分衆」。タイトルバックの粋なデザインに「ベサメ〜」と浪曲調の森繁の声がかぶさったところからもう、好みの映画だなと思う。南米帰りのムーチョムーチョな森繁と、古株のフランキー堺が、淡島千景演じる大鳥組を再興するというお話。フランキーの体育会系リズム肉体、敵役有島一郎やジェリー藤尾の行き過ぎた演技、のちのアイドル映画を先取りしたかのような若手女優の扱いも楽しいのだが、なんといっても、お台場の砂浜で、敵にもめぐりあえず小学生のスケッチに描かれてしまう森繁がたまらない。「次郎長三国志」の、あの明朗な森の石松の子孫が、富士山も松も地蔵様もない、高度成長期のクレーン居並ぶ海辺で困惑しているのだ。

 フィルムセンターは日曜に川島特集とあって満員。偶然、青土社の宮田さんに会う。次の回までしばし、幕間話。

 「イチかバチか」。伴淳三郎率いる鉄鋼会社が若手社員高島忠夫の活躍で、愛知県の東三市長(ハナ肇)の土地を買収するお話。団令子が魅力的。
 クライマックスは市役所での集会シーン。見張塔が見えるところを見ると、ロケ地は消防学校かその近くなのだろうか。階段や手すりごしに、コンクリートの隙間を穿って、さまざまなカメラアングルが試される。市長と議員の対決はあたかもアングル合戦。遺作とは思えない野心作。若いなあ、川島雄三。

 新幹線で京都へ。駅を降りてしばらくして、網棚にギターを忘れたことに気づいた。
 何ヶ月か前にも同じようなことがあった。どうかしている。


20070721

ユリイカ「大友良英」特集。

大友良英特集
 お知らせが遅れましたが、ユリイカ「大友良英特集」出てます。
 ぼくは、大友さんにとっての「音の海」というできごとについてあれこれインタヴューをしています。目次は大友さんの日記を。

 米原駅に来たところで、サイフを忘れたことに気づいた。
 ええいままよと思い、カードケースに一枚だけあったJ-WESTカードとポケットの千円札二枚を手に新幹線へ。
 車中、鞄をひっくり返すと、シカゴで換金した300ドルが手つかずで残っていた。東京駅を降り、両替商を探すが、あいにく土曜で開くのが遅い。新宿に移動して、ようやく一軒の両替商を見つける。なんか東京って外国の大都市に比べて両替商が少なくないか?
 いや、その前に、サイフ忘れたまま東京にくるか?

ディスコミュニケーション研究と会話分析

 東京学芸大学でディスコミュニケーション研究会。「あ」の相互行為について発表する。メンバーは「証言の心理学」で知られる高木光太郎さん、山本登志哉さん(この前ちょうど、伊藤哲司さんの発表で、アジアの映画を見る話が出たところだった)、呉宣児さん、奥田雄一郎さん、河野泰弘さん、そして同僚の松嶋秀明さん。
 過去の発表の来歴を伺ってようやく気づいたのだが、これまでの研究会では、もっと話題以上のレベルの、長い時間単位におけるディスコミュニケーションを扱っていたらしい。
 会話分析やジェスチャー分析での発語やジェスチャーのタイミングのずれ、よどみ、冗長な繰り返し、断続性は、ディスコミュニケーションというよりも、コミュニケーションをブレイクダウンさせないためのさまざまなリソースというべき現象だ。これに対して、ディスコミュニケーション研究が扱おうとしているのは、コミュニケーションが維持されているにも拘わらずなぜか終わったあと不全感が残るようなコミュニケーション(たとえば、自白を強要され続けることや、ないはずの記憶を構成されること)を問題にしている。
 もちろん、細かい時間単位のアプローチと長い時間単位のアプローチとは、排他的なものではない。むしろ両方をにらみながら研究を行うべきなのだろう。ローカルにはブレイクダウンせずに済んだコミュニケーションがグローバルには破綻しているとき、ローカルな場で何が起こっているのか。これが会話分析とディスコミュニケーションをつなぐ視点になるだろう。

階段の終わり方

 メンバーの一人、河野泰弘さんは、先天性全盲の方なのだが、河野さんと街を歩くのは楽しい。ちょっとした匂いや音への気づきが全然違うのだ。自転車の過ぎるわずかな音。向こうからやってくる人の足音。珈琲の焙煎の匂いが遠くからして、カレー屋の匂いがする。匂いは道を覚えるのに重要な要素で、一人暮らしの河野さんは、ディスカウントショップの匂いで帰り道の曲がり角を覚えているそうだ。換気扇から家具のような木の香りがするのだという。

 階段を下りるとき、最初は「もうすぐ階段が終わります」と声に出していたのだが、途中で、河野さんにはどうやら言わなくてもわかるらしいことに気づいた。
 わたしの肩が、階段が終わりかける直前に沈み方が変わるらしい。河野さんは、わたしの方に添えた手を通して、その変化から、階段の終わりを予測できるのだという。
 肩をお貸ししているというよりは、感覚をお借りしている感じ。

河野泰弘「視界良好」北大路書房

 その河野さんから、「視界良好」という本をいただく。
 河野さんは、目が見えないけれど、ペンで字を書くこともできる(ペンで書く字は、点字に対して「墨字」というのだそうだ)。本にサインをしていただいた。左手の人差し指をタテに構えると、定規のように右手にあたる。それがどうやら現在地の基準になるらしい。右手が、左手に沿いながら動いていく。筆圧の強い字が刻まれていく。
 その、河野さんの書く様子を拝見するだけでもう、何かを大切なものをいただいたような気がしていたのだが、本の中身もすばらしかった。
 食べること、着ること、住むことを、河野さんはひとつずつ確かめていく。生活のあらゆる場面について、河野さんはご自分のやっていることを検討し、それを楽しんでおられる。
 そこには、大きな道を渡るときのように、身の危険に関わることも含まれている。でも、河野さんは、往来の車を確かめていく手順を、ひとつひとつ、丁寧に記述していく。カレーの「ころあい」を確かめるときも、ジャガイモの皮をむくときも、服を選ぶときも、自販機でジュースを買うときも、河野さんの体の使い方には、すみずみまで神経が行き届いていて、文章を読んでいるだけでも、その体の感触がこちらに伝わってくる。
 その詳細がじつに楽しいのだが、これはぜひ本を読んで味わっていただきたい。
 
 視覚に頼って成り立っている世界と河野さんの感じておられる世界はずいぶんと違う。
 たとえば、河野さんには遠近法や透視図法を理解するのは難しいらしい。それはたぶん、これらの技法が(遠くは小さく、近くは遠いといった)視覚のロジックでできあがっているからだろう。そんな当たり前のことも、この本を読むまでは気づかなかった。
 視覚では静止画(ポーズ)というものがあるが、音はポーズを押すとなくなってしまうし、静止臭というものもありえない。河野さんが何かを思い出すときは、つねに相手やこちらが動いている「記憶映画」を見るようなものだそうだ。

 河野さんの論理で描かれる絵や配置というものもありえるかもしれない。河野さんの墨字のように、できごとの連鎖に体が導かれていくような絵はどんなものになるだろう。唄はどうだろう。そんなことも考えてしまった。

 新宿へ。宇波君、モモちゃんとカムジャタン。かえる目について楽しい計画。なにか、南から北へ、とか、ハープが、とか聞いたような気がしたが、酔ってたからか?ギターを引き取る。

20070720

 高田和子さんが亡くなられた。個人的な面識はなかったが、その優雅な三味線と声に魅了されたことを思い出す。帰ってきた<糸>。

ジェスチャー研究のアイディアを書き留める

 いつもゼミでいろいろ思いつくものの、それはデータや誰かの発言に対する瞬発力の産物なので、すぐに記憶から揮発してしまう。
 それで、松村さんに頼んで、彼女がノートにとったぼくのコメントを、その日のうちにメールで書き送ってもらうようにした。これはとてもありがたい。朝、自分で言ったことに暮れには驚く。
 以下、そのメモを編集したもの。

視線管理と空気すすりについて

 視線を下に落としている人が、質問者の空気すすりの音で視線を質問者に向ける。その後smileが起こる例。空気すすりの「意味」レベルの作用については、定延さんがすでに記しているが、それがなぜあのような特徴的な音かは記されていない。おもしろいことに、空気すすりは、多くの場合、発語の直前に行われる。ということは、発話権獲得にかかわっている可能性がある。
 もうひとつの問題は参与者の注意を惹くことだ。他人の視線をこちらに向けさせるには、視覚的な信号よりも音信号のほうが有効だ(なぜなら耳はいつも閉じられていないから)。空気すすりのようなShの明解な音は、他人の注視を集めるのに都合がよいだろう。そういえば、静かに、を表す「しー」もSh音だ。Sh音は、他の音とのマスキングのされにくさなど、注意を惹く特性が強いのかもしれない。

紙を通した相互交渉

 わたしたちはよく、会議でレジュメをめくる。これは単なる個人の読書行動ではない。紙めくりの音は、いままさに、紙がめくられるべきタイミングであることを告知する(それが証拠に、会議中にぼうっとしているとき、あちこちから一斉に紙めくりの音がすると、あわてて手元のレジュメを確認したりする)。
 たとえば、ディスカッション・リーダーが意見を言おうとして、レジュメをめくって第一ページ目を開く。なぜ第一ページ目だとわかるかと言えば、ホッチキスで止めた部分のたわみが、なくなるからだ。たわみがなくなってすっきりした紙の束は、議論が最初のページに関することを告知する。

質問のための手・視線・発声

 会議や教室で質問するときには、「はい」と手を挙げるのが基本。しかしじっさいには、発声をせずにそうっと手を挙げる人もいるし、手を挙げずに前の発話者と目を合わせることで次にしゃべりだす人もいるし、いきなりしゃべる人もいる。
 「はい」と発声することは、司会の人のみならず、他の人の注視も浴びる。「はい」と言ったのに指されないとき、指されなかったことは他の人にもわかる。いっぽう、前の発話者と目線を合わせてから指名を得るの場合、視線獲得のプロセスでは、さほど他の人の注視を浴びない。
 この意味で、発声による視線獲得は、よりパブリックな行為(ターゲット以外の 注目を浴びる)であり、視線による視線獲得(相手が視線を向けている時に視線を向ける)は、よりプライベートな行為であると言えないか。

行為の断続性と視線の注視

 断続的な行為は注視を引きつける。なめらかに動いているものよりも、ぎくしゃくするもの、静止しようとするもの、動き出しつつあるもののほうが注意を引きつけやすい(ような気がする)。おそらく人の視覚は、党則運動よりも、急激な加速や減速、つまりは速度変化に惹かれやすいのではないか。ひとつの行為の軌跡をあちこちで断続させることで、人の注意を惹くことができる。たとえば、「はい」と手を挙げるかわりに、少しずつ手を止めたり挙げたりする。

同調は異なるメディアによる同調の「失敗」(試み)の先に起こる

 複数の人が同じ所作をしようとするとき、その前にはさまざまな準備行動が起こっている。
1:音声:nh, ah hhにより同調を試す
2:視覚:視線のアプローチ(eye contactができたときに視線の「同調」が起こる)
3:ジェスチャー:上下運動の手の動き(ストロークの終了時点が合っていれば「同調に見える)
1.2.3がそれぞれ並行して同調の調節に貢献する。

20070719

一日ゼミと会議。


20070718

かえるさんの日常露天掘り

例によってお知らせが滞ってましたが、わたくしがボイスコラムをつとめます、築港ARCAUDIO「日常露天掘り」。定期的に放送されています。
7月のテーマは「待っている時間」。下記リンクをクリックすると聞けます。
http://www.webarc.jp/arc_audio/mp3/arcaudio20070704.mp3:シカゴ、オヘア空港で。
http://www.webarc.jp/arc_audio/mp3/arcaudio20070711.mp3:滋賀県、能登川駅で。
http://www.webarc.jp/arc_audio/mp3/arcaudio20070718.mp3:研究室で。

 カフェ工船へ。ハンドピックに始まる焙煎の奥深い話を聞く。1ハゼの音。海の近さと水分。よく焙煎したからからの豆からは泡が立たないことがある。そこから落ちる澄んだ珈琲。ポットで沸かした湯を少し捨てるのは、出口で沸きすぎた湯が「少し暴れる」から。アイスコーヒーをおかわりする。
 いつか「コーヒーブルース」みたいな、珈琲の唄を作れるといいな。でも、その場で思いついて五線譜に書き留めたのは、萩原哲晶風のマーチだった。

 夜、長谷川さん、サカネさんといやいやえんへ。長谷川さんは意外にも、尾崎豊と岡村靖幸に影響を受けたという。ぼくも岡村靖幸の曲ならかなり覚えている。飲み屋のカウンタで靖幸ソングを口ずさみあう結果に。


20070717

かえる属→かえる科

 新世界ブリッジの「鳴る!鳴る!鳴る!Vol.1」にて、かえる属で出演の日。
 四人だと「かえる目(もく)」、三人だと「かえる科」、二人だと「かえる属」、一人だと「かえるさん」。本日はオリジナルメンバーが二人なので「かえる属」ゲストはYukoさん。
 まずは、木下くん、Yukoさんと大阪のカラオケ屋で音合わせ。今回は初めてやる曲が3つあるし、全曲アレンジが違う。おおよそのキメの部分だけ合わせてあとは本番まかせ。
 ブリッジに入って、ピアノの弾き語りを入れて演奏。人前でまともにピアノの弾き語りをやるのは高校のとき以来かもしれない。
 リハが終わりかけた頃、「いやいやいや」と聞き慣れた声が。見ると中尾さんが立っている。サプライズ出演。というか、メンバーをサプライズさせてどうする! 急遽入ってもらってほんの1,2分合わせる。三味線を入れた新曲がみるみるリアリティを帯びる。中尾さんが入ったので、「かえる属」は急遽、「かえる科」に。
 ソウル・ドラマーズの息のあったパーカッションに始まり、リズミックで踊れる演奏が続く。はたしてこの空気にわれわれの気の抜けた楽曲がどう作用するのであろうか。

 と思ったら、アンコールをいただいた。伝え聞くところによれば、popoの信記さんが、今年のライブベスト5に入ると言っていたとか。彼が今年見たライブが5つでないことを祈るのみである。
 最終で京都に。


20070716

霊長類学会三日目

 午前中のシンポジウム、午後の口頭発表と、もっぱら裏方に回りつつ、各会場での発表を拝聴する。
 この三日間で、DNA解析から生態学、行動学、はたまた形態学に至るまで、霊長類学のかなりの範囲にあれこれ触れることができた。こうしてひとつの学会を通観するのはいいものだなと思う。たとえば、四足歩行にも、行動学のアプローチ、形態学のアプローチ、比較進化のアプローチと、さまざまな視点がある。もちろん、専門家はそのすべてに通じているはずだ。けれど、いきなりこういう異分野の発表を排他的なものとしてではなく、視点を重層させていくものとして、おもしろく聞くことができるのは、外様の特権かもしれない。
 夕方、ようやく三日間+αのおつとめが終わる。

 午前中に中越地震が起きたことを知る。
 明日のライブ用に新曲のアレンジを練る。


20070715

霊長類学会二日目

 朝から口頭発表の裏方、シンポジウムの司会などなど。
 台風一過で助かったと思っていたら、パネリストの西谷修さんが、新幹線不通のため来場できないとのこと。急遽、手元にあったパソコンにスカイプを入れてつないでみるが、すでに本番間際。司会をしながら何度か接続を試み、なんとか西谷さんの映像を会場に流すところまでは行ったものの、その後、回旋が不安定で、お話をしっかり伺うところまでは行かなかった。なんとも申し訳なかった。
 その後、古市さんによる、チンパンジー、ボノボ、ヒトの三種比較の話。チンパンジーの子殺し研究は、ここ10数年でずいぶん進んでおり、旧来のように父系社会における社会生物学的な要因だけでは説明できない事例もいろいろ出てきている。チンパンジーの暴力は、単純に適応度を高める状況にのみオンになるような生やさしいものではない、ということなのだろう。
 竹下さんの話は、母子関係の「しつけ」に埋め込まれた「手をあげてしまう」という「暴力」の問題について、これを回避する道を模索するという、困難だが切実な話で、この日の壮大なテーマは日常にうまく係留されたと思う。
 時間の関係上、発表者の黒田さんと、コメンテーターの伊藤さん、曽我さん、西田さんに十分にお話いただけなかったのだが、とくに伊藤さんの「イラクにウルトラマンが来たら誰のために戦うのか」という喩えと、曽我さんの「チンパンジーの『群れ』にあたるものを、ヒトの場合は『民族』や『国家』としてしまっていいのか」という問いが記憶に残った。

 外で曽我さんと久しぶりにいろいろお話。匂いが記憶を喚起する力に長けていることは、よく言われるが、このことを、「匂いはその空間にあるものを探索させるだけでなく、その空間にないものを時間的に探索させる」と言い換えてみると、時空間の広がりの中で、匂いがどういうベクトルを持っているのかが捉えやすくなる。投網の投げ方について。ちょっとした技術を身につけるときも、身体は言語のスピードを超えなければならない。こうしてこうしてこうなる、と思う間もなく身体が動くようでないと、技は成立しない。そして、技を見て覚えるというのは、技の中に分割不能なチャンクを見いだし、そのチャンクを成立させるべく努力するということである。  おもしろいポイントは、チャンクを成立させる過程はひとつではない、ということだ。技の中のチャンクは、いわばプチ・ゴール志向を促す。学ぶ者は、チャンクを目指して何度も修練を積む。ただしそれは、オリジナルと同じ過程の修練を意味しない。また、技の形にも個性が忍び込む。

 懇親会。若手発表者に対する優秀賞の授賞式。和田くんたちのファンファーレが受ける。


20070714

霊長類学会一日目

 朝から会場準備。午後、自由集会「社会的なるものをめぐって」。西江さん、中川さん、北村さんの発表。西江さんの話は、社会相互作用の話で、霊長類学の中でこうしたアプローチが可能なのだということにとにかく驚く。人間における「会話」分析のような言語に頼った分析ができない分、たいへんだと思うが、ジェスチャー分析研究をやっている人間としては、シンパシーを感じる内容。
 飲み会ですごくいいアイディアが次々と湧いてくる気がして、横にいる城さんに、「これ忘れないうちに書いて!」と頼む。彼女が書いてくれたメモは以下の通り。

同期をとりやすいメディアの順番
1.触覚
2.聴覚
3.視覚
視覚で同期するとき、beatingやgesture phraseの切れ目は、同期を達成する手がかりとなる。「待つ」ことは、同期のためのリソース.
「待つ」ということはジェスチャーの本質。
「じゃんけん」は、視覚だけでなく聴覚によって同期を取る。「せっせっせーのよいよいよい」には、視覚、聴覚、触覚のすべてがかかわって同期をとる。

 おもしろいが、このままでは、酔っぱらいのたわごとである。


20070713

 演習。明日から始まる霊長類学会の裏方準備。


20070712

 一日ゼミと講義の日。また電池が切れかける。リポDリポD。


20070711

 会議に卒論指導。


20070710

 講義に会議会議。


20070709

 しばらくぶりに論文に手をつける。どうも執筆が細切れでなかなか前に進まない。


20070708

 京都北文化会館に鶴原幸さんのピアノコンサートへ。
 ピアニストとしてこれからやっていくのだ、という緊張が伝わってきて、こちらも緊張する。おそらくは多少リラックスして弾かれたのであろうアンコールの曲に、少しほがらかなメロディの上下。
 カフェ工船で豆を買う。津田蓄音堂(この店に入るのは何十年ぶり)で高橋悠治のソロを買ってくる。


20070707

 午前中、論文の査読。
 午後、大阪へ。新世界ブリッジにて、千野さん弾きっぱなしの演奏会。三組の歌い手が入れ替わる。
 bikemondoこと西崎さんは天才で、天才のわりにあまりに声が小さい。ギターを弾くときはとりわけ小さい。今回も小声で「消防車を呼ばれても離れられない」という、後頭葉を殴りつけるようなフレーズを歌うので、くらくらした。あとで聞いたら、「消防車を呼ぶ」というのは、どうもご近所の方に起こったノンフィクションらしいのだが、ノンフィクションに恵まれるだけで「消防車を呼ばれる」から「離れられない」にことばが飛躍できるほど、人生は甘くないはずだ。
 何曲か、これ、千野さんと青野さんと組んでレコーディングしたらいいのになー、と思うのがあった。

 そしてそして、裸足でギターを弾き語るところだけが矢井田瞳に似ている倉地さんのライブ。
 スーパーで聞こえてくるすべてのことばがギターに乗って往来し、歌と歌ならざるもののあいだで渦を巻く。あたかも、倉地さんの足運びのように。千野さんのピアノが入ると、ハバネラのような艶やかさが出てまたいいなあ。

 巻上さんとおおたかさんの楽しいやりとり。ほとんどアドリブで、ことばまでその場で思いつかれていく。その横でことばを発しない千野さんの存在感。ピアノを弾きながら「黙ってる」感じ。で、弾き止めたときの存在感がまたすごいんだよなー。「え、なんで弾かないの?」て気にさせる。
 最後に倉地さんを交えてボーカル三人に。おおたかさんと巻上さんが「上を向いて歩こう」の替え歌を歌い始める。流れるように二人がいい雰囲気で歌い継いだあと、いちばん最後のフレーズに入るところで、目線が倉地さんを向く。舞台の隅で倉地さんが「え?え?」ととまどいながらようやく放ったひとこと。「ひとりぼっちの・・・オレ」。

 

 倉地さんには、かえる目のファーストアルバムのジャケットをお願いしている。幕間にその話になり、倉地さんがぱらぱらと見せてくれた参考写真には、創作カーに乗って笑い合っている家族の写真。間違った進化に対するあまりの楽天性。異星人が地球に降りると、たぶんこんな感じを受けるんじゃないだろうか。
 この星は、とんでもなくおかしな進化を遂げている。しかしいちばんとんでもないのは、そのおかしな進化に乗っかっている人類なる種が、あまりに楽天的なことだ。
 倉地さんの唄は、ときどき、そんな楽天性に感染してしまった異星人の唄に聞こえるときがある。
 ぼくは、かえる目の歌詞を作るとき、どちらかというと、異星人に届かないこと、こちらのリーチ不足のことを歌っているような気がする。でも倉地さん(の唄)は、異星から来て、しかもスーパーに入って、スーパーに驚いている。8ミリ撮影に驚いている。とんでもなく臨場感がある。


20070706

 会議に演習。いつもの日。


20070705

 東京人に書評原稿。「Petit Book Recipe ~リトルプレスの作り方~」 yojohan著(毎日コミュニケーションズ)を取り上げる。
 自主制作本には、「ZINE」「リトルブック」「リトルプレス」さらには古式ゆかしく「ミニコミ」などなどさまざまな呼称があり、それぞれの呼び名に使い手のこだわりが感じられる。が、それを追求すると、この本の「とにかくまずは手を動かそう」という感じが削がれてしまうし、字数も限られている。というわけで、デリカシーは抜きに。来月あたまに出る予定。
 朝から四コマ。そのあと京都へ。アパートに青山さん田尻さん来訪。小山田さんも帰ってきてにぎやかに飲み会。


 

20070704

生物と無生物のあいだ

 「生物と無生物のあいだ」。著者の福岡氏は、ぼくと同年代の生物学者。1980年代の時代の空気を思い出しながら読んだ。
 ぼくが動物学の大学院に入った頃、ちょうど、分子生物学のほうでは、ES細胞の発見に湧いており、生物学の研究はますますチーム制となり、プロジェクト化していた。同級生の何人かが、そうした最前線のプロジェクト研究へと進んだ。
 しかし、それは、なにも1980年代に突如始まったことではない。昔から、科学にはある程度の確度で絞り込まれた、発見の「最前線」があり、そこでは複数のプロジェクトがしのぎを削ってきた。同じ内容の研究が世界のあちこちで為され、相前後して雑誌に掲載されることもあった。それはおそらく、科学が、まったくの白紙から始まるのではなく、特定の文脈のもとで意味を為すからだろう。
 
 この本の現代性は、偉人伝ではない生物学を描いた点にある。
 発見は、一人の天才の上に天啓のように降りてくるのではなく、複数の地道な作業の果てに、それらの交差する場所として現れる。そして、そのように交差する人生に、福岡氏は常に共感を寄せている。
 それは著者の関わっている「動的平衡」という生物観とも深いところでつながっているのではないかと思う。危うい動的平衡を保ちながら人類は(そして科学は)代謝を続け、人は移り変わる。


20070703

ラウドネスと住宅事情

 仕事中の音楽に景気をつけたくなった。いま使っているのは、中古品のミニコンポなのだが、どれくらい使ったのかと思って日記を検索したら、ちゃんと買った日がわかってしまった。2000年10月。何年も日記をつけていると、くだらないことも探し当てられてしまう。当時ですでに中古だったし、そろそろ買い換えてもバチは当たらないかもしれない。
 ・・・というような言い訳を自分に付し、近所の電器屋でプレーヤー付きアンプとスピーカーを選ぶ。ONKYOのCD-R1とD-112Eという組み合わせが、大きさも値段も手頃だった。
 家に帰っていそいそとセットしてみると、高中音はとてもクリアだが、ちょっと低音が物足りない。あれ、と思ってネットで同じ機種を検索してみると、やはり低音が弱いという意見と、すばらしいという意見の二通りがある。
 スピーカーやアンプにはエイジングという馴らし運転が必要だという話も聞いたことがあるので、とりあえず一晩おいてもう一度聞いてみることにした。
 すると。とんでもなくいい音がした。エイジングというよりは原因は音量だった。
 買ったときは、すでに夜も遅かったので、小さな音量で聞いていたのだった。これまでのコンポだと、小さな音でもベースが(いまから考えると不自然なほどに)鳴っていたのだが、今度買ったものにはそういう補正はない。それで物足りないような気がしたということらしい。
 昼間にボリュームを上げると、ナチュラルな低音が鳴った。解像度も申し分ない。おそらくもっとボリュームを上げればさらにいい音に違いないが、それは住宅事情が許さない。ブックシェルフ型だから、そこそこの音量でよいと侮っていた。このアンプとスピーカーのポテンシャルを十分に引き出すには、引っ越しが必要かもしれない。
 そういえば、むかしのステレオには「loudness」というのが付いていたなと思い出す。小さな音量では沈みがちな高音と低音にイコライザをかけて無理矢理引き上げてやるあのエフェクト(iPodにも付いている)、じつは、日本の住宅事情に適した知恵だったのかもしれない。


20070702

 朝からJeffersonの笑い論文を再読(五本くらいある)。ディティールに学ぶところ多し。

 夜、Urbanguildで長谷川健一さんのライブ。高く済んだ裏声は、生で聴くといっそう迫力がある。「ひまわり」の歌詞、すごいな。
 不思議なことだが、京都で聴いていると、なぜか、歌詞の世界が京都のどこか特定の場所と符丁するような感じがする。東京で聴いたときは、歌っている場所とは違う、どこか、あの世の世界のような気がしていたのだが。


20070701

 朝、赤と青のねじり棒が回っているのを窓から見て、散髪に。
 寺町に出る。CDプレーヤーを買う。

 帰りに寄ったカフェ工船の珈琲。ネルでいれたローストの味には、上品な輪郭があって、何がしたいかがはっきりと伝わってくる。
 あれこれ詰め込まずに、無駄を省いて、ことを際だたせる。
 珈琲でこういうことができるんだなあ。
 珈琲をいれている店主の手つきにも、品がある。その所作を見ていると、なんだか自分でも珈琲をいれたくなり、豆を買って帰る。
 ペーパーで出して、部屋で飲んでみる。店で飲んだものには及ばないが、すっきりとした味で、なにより驚いたのは、しばらくおいて冷めた珈琲がおいしいこと。
 


 
 

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