The Beach : June 2006


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「絵はがきの時代」
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20060630

第一次大戦的WC

 ドイツ vs アルゼンチン。負けはしたが、アルゼンチン中盤の吸い付くようなパス回しは堪能した。
 いかんせん、ドイツのディフェンスはしぶとく、そして守りに入ったアルゼンチンをわしわしとこじ開けた。アルゼンチンのキーパー、アボンダンシエリが負傷交代したときに明らかに不穏な空気が流れたけれど、むしろ印象的だったのは、その直前、交代の直接のきっかけとなったクローゼの乗り込みやそれに先立つドイツのごつごつした攻めが、前半だけ見ればどう見ても勝っているはずのアルゼンチンを守勢に回らせたことだった。
 先見日記で赤瀬川原平氏が、サッカーを「野戦病院」と喩えていて、まったくその通りだなと思う。ドイツやフランスの戦い方はまさに第一次大戦的だ。地続きの敵国にわしわしと乗り込んでいき、あちこちで負傷者が出ている間にも戦いは続く。吐いても脚がだめになってもやる。これ以上動いたら体が壊れるという恐怖を越えて戦う。そういう構えを、戦いは要求しているし、体が壊れること込みでサッカーは行われる。
 「バルトの楽園」たる日本が、今回のWCのような場で勝てるとは思えないし、そういうものだろうと思う。ドイツやフランスには、おそらく、あのように戦ってしまう歴史的経緯があるのだ。


20060629

ピンポン絵はがき

pingpong01_s.jpg 久しぶりにピンポン絵はがきを入手したので公開。ピンポンの招待用に作られたもので、「○曜日の○時からピンポンをしにいらして下さい」と、あらかじめ刷り込まれたもの。1900年代初頭、フランスで投函されたもの。

空気のような院生室の知

 菅原研の院生である是枝さんがゼミの見学に来る。是枝さんはラトゥールの「科学が作られているとき」などを下敷きに、研究室における知識の伝達や知の形成をテーマに仕事をされるという。
 いろいろと話しているうちに、自分の院生時代を思い出すとともに、現在の研究室体制についてもいろいろと考えてしまう。正直なところ、現在の勤務先の院生部屋は、あまり活動的とは言えない。そのいちばんの理由は、学内にいる院生が少ないことだろう。専攻内の院生の半数は社会人入学でそれぞれの仕事を抱えているし、他の人もそれぞれフィールドや受け入れ先を持っていて、学内に人がいない。
 ぼくが院生のときには、助手室や院生室にはいつも誰かしら人がいて、時間があるととにかく大学周辺にいるというのが当たり前だった。先行研究を探すときはいつも他の院生の人に相談していたし、昼飯や飲み会は院生どうしで行くのが日常茶飯事で、そこで行われる駄論駄弁もまた、アイディアの肥やしになった。ぼくは他の院生に較べて、あまり院生室に居着くほうではなかったが、それでも、最初にやったエレベーター内の会話分析の仕事は、当時の先輩であり生態学的分布に詳しい近さんや、ウグイスの音声コミュニケーションをやっていた百瀬さんとの会話に多くの影響を負っていて、この二人と話した時間は、ぼくの一生の会話量のかなりの部分を占めている。
 しかし、そうした院生室の雰囲気というのは、けして当たり前のものではなかったということを、現在の勤務地に来て痛感している。たとえば京都市内の大学のように、大学の周りに学生が住み着き、用事がなくともうろつくことのできる本屋や喫茶店や飲み屋がある環境というのは、じつは非常に恵まれているのだ。

 院生室に人の気配が少ないというのは、地方に建てられた大学ではとくに珍しいことではない。京都にいるときにはわからなかったけど、あの院生室時代というのはじつは稀有なものだったのだなと思う。


20060628

万国の絵はがきよ、流通せよ

 例によって妄想なのだが、共産党宣言が出された1848年以降、ナショナルにまとまろうとする独逸帝国のベクトルとインターナショナルにつながろうとする労働者のベクトルとが、相反共謀しながらドイツを危うく発展させていった時代に、まさにインターナショナルな万国郵便連合がドイツ語圏で誕生し、ドイツ絵はがきが世界を覆っていったのは、偶然とは思えない。
 しかし、絵はがきは流通することによって、ドイツをはじめとする各国の思惑を越えた図像を華開かせる。
 以前、郵便学者の内藤陽介さんと話していてはたと気づいたことだが、同じ郵便でも、官製である切手には国家の思惑が強く反映するのに対し、私製の絵はがきは、そのような思惑を越えたところに奇妙な流行を起こす。絵はがきの図像は、より複雑で込み入っており、各国間の関係をクリアカットに語るには不向きなメディアである。が、逆にその、国家の思惑を越える奔放さが魅力でもある。
 印刷メディアということでいえば、ドイツでは新聞も大きな役割を果たした。しかし、新聞は言語を扱うことによって、どちらかといえばナショナルなベクトルを形作るのにあずかった。それに対して絵はがきは、通信欄と宛名欄を空白にすることで、どんな言語も受け付ける、トランスナショナルなメディアとなった。
 いよいよマルクスを読み込みながら絵はがき論を展開するときが来たかなと思う。そこで、冒頭の惹句となった次第。


20060627

 ジュンク堂でバイトしている江崎さんのご厚意に甘えて、POPを置かせていただくことに。自著のPOPを書くのは初めて。アオリ文句は「郵便が一枚の紙になったとき、人々がその露骨さに熱狂した!!」。三宮前店(ダイエーの7Fのほう)で近日中に「絵はがきの時代」の直筆POPが出ます。買ってね(POPじゃなくて本を)。

ワーキング・メモリを使うラジオ脳

 KBS滋賀の「さんさんワイド」に5分ほど出演。以前、彦根の記者クラブで話した絵はがき論に興味を持っていただき、今回の出演と相成った。
 ラジオ出演は初めてだったのだが、これはテレビに較べてずいぶん自由でよい。打ち合わせも短く、打ち合わせにない話を本番でしても(放送時間内におさまる限りは)オーケー。パーソナリティの松井桂三さん、竹上和見さんは短いフレーズで小気味よく反応してくださる。
 これがTVだと、絵と合わせなければならないので、言うべき内容はあらかじめ決まっていることが多く、自由度がぐっと減る。少ない出演体験から言うのはなんだが、総じてリハーサルと打ち合わせが長く、決められたコメントを言うコマとして扱われることが多いと思う。思いつきをべらべらしゃべるぼくのようなタイプには不向きなメディアだ。
 記憶研究では、ワーキング・メモリはとくに聴覚系で働くといわれている。
 視覚的手がかりが空間に残存することが多いのに対し、聴覚的な手がかりは音が鳴るはしから消えていく。ドルフィーのことば通り「音はいったん空間に放たれると消えてしまい、二度と戻ってこない」のである。このように次々と浮かんでは消えていく音というメディアを記憶処理するには、秒単位で働くワーキングメモリをどんどん使ってリハーサルしてやる必要がある。音とつきあっているラジオの人は、テレビの人とは使う頭の部位が違うのかもしれない(あまり信用しないように)。
 もうひとつおもしろかったのが、パーソナリティどうしのジェスチャー。「はい、電話番号は」「0749の・・・」というようなターン・テイキングをラジオ番組ではよく聴くけれど、このとき、録音ブースでは目線と手によるタイミングの指示が起こっている。ラジオ番組では、(オーバーラップを避けることが尊ばれるため)ターンの交替場所を明示する必要が日常会話よりも高く、視線を使ったやりとりは、ラジオ番組のなめらかなターン交替をかなり支えているように見えた。ラジオ録音におけるジェスチャー研究というのは、working space研究としておもしろいんじゃないかと思う。  

再び先見日記で

ガビンさんの「ここにいます」論。読んでいるうちに背中から自分が幽体離脱しそうな話。

ブラジル vs ガーナ

 この緩い、やる気のなさそうな走りがくせものなのか、ブラジル。ガーナの踊るようなパス回しからは得点は生まれず、ブラジルはオフサイドラインをひょいと抜けて軽々とゴール。たぶん、ギアを上げるときの見極めが上手いんだろうな。上手すぎて、TVで見ていてもちっともわからん。3点めが入ったところで視力の限界に達して寝る。


20060626

絵はがきの時代とドイツ近代史

 ジュンク堂四条店の3Fには「絵はがきの時代」が面出ししてあった。じつは本屋でこの本を見かけたのは初めて。売れますように、とまじないをかける。

 ドイツの近現代史を勉強し直すべく、「近代ドイツの歴史」(ミネルヴァ書房)。諸侯国時代から、共産党宣言による「インターナショナル」を経たドイツがナショナルに傾斜するまでが、絵はがきの最盛期である。
 ドイツの絵はがき文化は第一次大戦までのドイツ帝国の発展と軌を一にしている。これは単なる偶然ではない。絵はがきの流通は、石版印刷術の革新、そして1861年までに一万キロメートルを越えた鉄道網の整備によって成立した。1890年代のドイツでは、鉄道駅が絵はがき販売の拠点となり、各都市で「Gruss aus」絵はがきが発行された。この点で、絵はがきは帝国時代の所産である。そして、ドイツ各所を単なる諸侯国の集まりではなく、Deutch Reich Postのもとに図像化していった点で、絵はがきは帝国の凝集力を強めた。
 さらに言えば、19世紀後半におけるアメリカの石版印刷の発達には、同じころに起こったドイツからの大量移民問題がからんでいるだろう。それは、サーカスやミンストレル・ショーのポスター文化を生み、カラー印刷による新聞文化を生み、そこでウィンザー・マッケイの「リトル・ニモ」が生まれた。
  いま上映中の「バルトの楽園(がくえん)」は第一次大戦時のドイツ俘虜を収容した徳島板東収容所が舞台となっている。そこでは、俘虜によって第九が演奏されただけでなく、新聞、絵はがき、切手などが俘虜自身の手によって印刷された。これらは、19世紀後半以来、ドイツが培ってきた印刷文化が端的に表れたものでもあった。

 京大会館で、コミュニケーションの自然誌研究会。大村さんのイヌイットの発表。人類学への自己言及という、飲み会が盛り上がりそうな話題が扱われていたが、本日はパスして。

ヘンだけど速い音

 夜、Shin-biへ。宇波拓、マッティン、ジャン・リュック、ベルトランの「・/・」演奏会。隣の「ハイジ」上映会を驚かすような不吉な轟音。ジャン・リュック、ベルトランの演奏がすごいなと思うのは、とても通常ではありえないような音を、すごく確信を持って出していることだ。
 ある音がギミックに聞こえるとき、その原因は、ある音色にいたるまでの経路の曲がり方にある。「へ」という音を出すために「ぽへ」と鳴る。このとき「ぽ」はある種の逡巡に聞こえ、「へ」はギミックであることがほのめかされる。
 が、彼らの音は、ヘンではあるが、ギミックではない。サックスから出る音としてはすごく変わっているのだが、その変わった音色に行くまでがすごく速い。頭に浮かんだヘンな考えが、そのまま音になったような感じなのだ。
 休憩時間、ジャン・リュックにそのことを言うと、「両側でマッティンと宇波のコンピューターが鳴ってるからね。なるべく『速い』音を出すようにしてる」と言ってた。
 近くの居酒屋で打ち上げ。

 彦根に戻って、イタリア vs オーストラリア。前回のWCの再現かと思うようなマテラッティへの理不尽なレッドカード。しかも相手監督がヒディング。しかし、そのお返しにもらったPKでイタリアが勝ってしまったのだから運命はわからん。というか、あそこで、PKもらいに行く駆け引きのセンスがすごいんだろうな。


20060625

絵はがきグルーヴ

 日本絵葉書会月例会。20分ほど講演。10冊持って行った「絵はがきの時代」はあっという間に完売した。そして例によって絵はがき交換で山ほど絵はがきビームを浴びる。
 大量の絵はがきを回しながらこれはと思う絵はがきを手に入れていくうちに、独特のグルーヴに巻き込まれる。このグルーヴは後日再現することは不可能で、何日かすると、せっかく入手した絵はがきも、いったい何がおもしろくて手にしたのかわからない駄物へと成り下がることもしばしばある。
 最近は駄物化現象を阻止するべく、その日のうちに、各絵はがきのスリーヴに、手に入れた理由を記した紙を入れておくようにしている。たとえば「文面に『小生絵葉書大好きです』の文字」などと書いておく。これなら、なぜ自分がその絵はがきに手を出したか、そのグルーヴが微かに思い出される。

 イギリス vs エクアドル。ベッカムのPKもさることながら、この日はルーニーが悪ガキのようにゴール前を動いておもしろい試合だった。しかし、じつは、痩せぎす長身のクラウチを楽しみにしていたのでちょっと残念。クラウチが何人ものディフェンスにまとわりつかれている絵は、何かを思い出させる。確か、ツインピークスにそんなシーンがあった(ような気がする)。


20060624

感覚を拡げる

 shin-biで、梅田哲也、大友良英、細馬による鼎談。梅田くんが、頭の中にあることを実現するのに、ギャラリーで個展を開くというプロセスが不要だといっていたのがおもしろかった。作った作品の形を整えることよりも、もっとやることがある、というのだ。
 現象の持っている時間を、なるべくダイレクトに出す。そのために必要な形があればよい。それがたとえば、ホールトマトの缶を継いだものであっても構わない。
 そう書くと、梅田くんはまったく形にこだわっていない人みたいだけど、じつは逆で、風船を使ったインスタレーションにしても、米を炊くというパフォーマンス(?)にしても、彼は物の配置や設定にはとても気を遣っているし、じっさい、ぼくも参加した米を炊くイベントでは、円状に並んだ人の配置や、缶を引き渡していく設定のおかげで、お互いが聴いている音や見ている光景が、思わず想起されてしまうような効果を持っていた。
 つまり、オブジェを使って造形する、といういわゆる造形作家とは、力点の置き方が違うのである。空間の中で見る時間、聴く時間がどう変化していくかを設定する。空間に置かれたオブジェは、設定を可能にするための形と配置を備えていることが重要なのである。じっさい、梅田くんの作ったオブジェ、というか道具には、美術作品の持っている永続性はない。やるたびに造り直されているというし、「家に置いておくと錆びてもったいないから他の人にも使ってもらいたい」などというのである。
 形の整い具合から美術を見る人にとっては、梅田くんの作品はおそらく理解不能だろうと思う。が、その時間の使い方の大胆さに注目するなら、彼のものの扱い方、音の出し方はとてもおもしろい。
 昨日に続き吉田屋で打ち上げ。今日は軽めの打ち上げで、それでも2時過ぎまで。


20060623

モリアオガエル@法然院

 講義を終えて京都の法然院へ。方丈の間で山本精一、大友良英、sonarによる演奏。6月はカエルの季節。夕暮れてちらほらとモリアオガエルの声が聞こえては止む。このモリアオガエルと演奏する、というのが山本さんの発案だったらしいのだが、これが、冗談ではなかった。
 最初のsonarの第一声とともに、それまで鳴いていなかったモリアオガエルがどっと鳴き出す。この日のモリアオガエルの反応はすばらしく、sonarのすばらしい歌が終わっても、誰も拍手をせず、その鳴き声に聞き入ったほどだった。山本さん、大友さんのギター演奏でも、カエルは明らかに演奏に反応していた。どうやらある種の持続音によって発声が促されるらしい。その声は、コルクネジをひねるような一匹のコロコロから、裏山全体のコーラスへ、遠くから近くへ、自在に変幻していく。その立体的な音世界は、もはや単なる環境音ではなく、明らかに演奏を左右している。もちろんそれは、この日の三人の演奏者が、カエルを聴く才に長けていたからなのだが。
 吉田屋で打ち上げ。レイ・「いってきます」・ハラカミさん、竹村ノブカズさんと同席。「子どもと魔法」というタイトルから竹村さんがラヴェル好きであることはなんとなく推察していたのだが、じつはウェーベルン好きなのだそうで、それであの、メロディの内部で音色が交替する竹村さんの曲はウェーベルンの方法に相通じることに気づいた。

 sonarさんの歌は英語のものがほとんどで、一曲だけ日本語のものがあり、その歌詞がよかった。聞こえないことでわかること、ふれないことでわかることについて。日本語の母音を歌うのはむずかしい、という話になる。英語だとさらりと言えることが、日本語では母音が持続されるため、単語が強調されすぎて生々しくなる。それをどう避けるかが問題、ということだった。
 単語の意味が力を持ちすぎると、それは音としてほどけにくくなる。でも、この日のsonarさんの母音は、モリアオガエルを取り込んで、とても微妙なテクスチャにほどけていた。じつは聞きながらチャイナさんのことを考えたのだが、そのことは話題にしなかった。


20060622

敗北を背中で

 ブラジル vs 日本。後半はメンバーを入れ替えて余裕のブラジル。この三戦、日本はほとんどいいところがなかった。
 終了後、中田が一人、ずっと走り続けたピッチの上で仰向けになって、長い間動こうとしない。誰にもその時間を譲ることはできない、という風だった。背中には、通ることのなかったパス、走り込まれることのなかったゴール前、相手のあまりにあざやかな動きが、いやでも描かれるだろう。「敗北を抱きしめて」ではなく、背中全体から伝わってくる敗北。
 長い仰向けざまの間になにが起こったのか。何年かのちに中田が指導者になったときが楽しみだ。


20060621

 メキシコは走り回り、アルゼンチンの前回の動きは封殺された。それでもアルゼンチンの勝ち。そんなボレーあり?


20060620

 ドイツ vs エクアドル。クローゼをはじめ、ドイツFWは、まるで戦車のようにわしわしとディフェンスを押しのけていく。なんというか、カタマリが走ってくる感じなのだ。この迫力はすごいな。同じ長身でも、イングランドのクラウチとはえらい違い。


20060619

 査読と原稿。行きがかり上、ロールシャッハ・テストの歴史をざっと勉強することに。といっても、原稿には一行しか書かなかったけど。

 ロールシャッハ・テストは、同じ10枚の絵を徹底的に使い続け、その症例を積み上げることでその知見を積み上げてきた。歩く人がいればそこが道になる、というわけだ。
 テストに使われる絵の喚起力はシンメトリの力に多くを負っている。ヒトにとって対称性とは何かという問題についていろいろおもしろいアイディアが浮かぶのだが、心理検査の内容をWWWなどで公表すると検査の有効性が失われてしまうので、ここでは書かない。

「ここにいます」2.0

 ガビンさんから、現代の「ここにいます」メッセージの例として、百式で紹介されているGoogleマップへのピンの立て方その実例を教わる。なるほど、航空写真にピンを立てるとまさしく「ここにいます」感が上がる。パワー・オブ・テンの中のわたし。

 カナダから「カナダ愛国絵はがき史」というのを取り寄せる。カナダの絵はがき史についての本というのがあまりないので買ってみたのだが、これが、数百ページにわたって全編カエデだらけ。ほんとうにpatriotic な絵はがきばかりなので驚いた。何にでもコレクタがいるものではある。


20060618

石の記憶

 余呉のコレクタの方にお会いする。喫茶店で滋賀県各地の絵はがきを、一枚、また一枚と拝見していると、ある一枚のモノクローム絵はがきに写った小さな岩をさして、「この石、なつかしいなあ」と言われる。
 どうということはない公園の路傍の石なのだが、それを見ながら、「この石のこちら側にぼくの家があってね」と、写真の上の宙をなでるように動かされる。どうやら、石の近所に実家があったということらしい。「ぼくはこの石によく座ったから、形をよく覚えているんですよ、ほら、こっちの写真の石にも座りました」と次の写真をめくると、なるほど、同じ公園の別の石がある。どちらも、何の形とも形容しがたく、じっさい、その方は何にたとえるでもなくただ「石」と呼ばれるのだが、「座ったことがある」という確かな感触が蘇るらしく、何度も、「この石の向こうの港がね」とか「この石から見るとね」とおっしゃっていた。

 日本vsクロアチア戦を見て、欲求不満になり、ブラジルvsオーストラリア戦を続けてみるが、とても優勝候補とは思えないブラジルのピントの合わない攻めを見て、さらに欲求不満に。


20060617

書評

 『絵はがきの時代』について先見日記で伊藤ガビンさんが長文をしたためて下さいました。いつもの先見日記に増して長っ! かたじけない。まったくもってかたじけない。

徴候としての鳴き声

 資源人類学の研究会。研究会は久しぶりだということに気づく。四月からこのかた、どうも調子が閉塞しているような気がしていたのは、研究会に来てなかったからだな。
 菅原さんの発表は最近の仕事をざっと駆け足で抜けるような内容。対して丸山淳子さんの発表は、カラハリの再定住地における「ヘッドマン」制度と、テベ、クアの系譜との関係を綿密に調べた話。カラハリ研究はまったくドシロウトなので、細かい事例の背景は分からなかったが、いろいろ妄想をたくましくした。

 菅原さんによると、サンの語りの中には、動物の行動が突然現れるのだという。たとえば、ある者が死ぬエピソードが延々と語られているときに、とつぜん

 ダイカーが鳴いた

 などというフレーズが差し挟まれる。サンにとって、この世は徴候に満ちており、動物の行動はそうした徴候の中でも多勢を占めるのだという。
 そんな話を聞きながら思い出していたのは、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」だった。

"Toss me a cigaret, I think there's one in my raincoat."
"We smoke the last one an hour ago."
So I looked at the scenery
She read her magazine
And the moon rose over an open field

 このポール・サイモンの「So」と「And」がもたらす飛躍がむかしから好きで、それはなぜなのかよくわからなかったのだが、そう、「そして月が平原にのぼった」という最後のフレーズはまるで「ダイカーが鳴いた」とそっくりじゃないか。
 柔らかな光の徴候が平原を覆う。そして「迷う」。ポール・サイモンの歌は一貫して、アメリカ探しの果てに「迷う」。それはメイフラワー号に乗ってきたときから("We came on the ship they called Mayflower")さだめられてきたことだった。

 徴候は、前触れもなく現れる。徴候が現れたときには、もう運命は定まっている。徴候によって、わたしは、未来の事件に遅れることを知る。あるできごとが起こるのは未来でありながら、そのできごとが起こるであろうことは、現在に決まっている。
 徴候は、とりかえしのつかなさを表す。
 現在のできごとによって、自分の未来が限定される。徴候に気づくと同時に、わたしはひっそりと、そのような運命を受け入れている。「とりかえしがつかない」とは、そういうことだ。


20060616

イマジネーションの中に走り込む

 あいかわらず人並みにWCを見てますが、アルゼンチン vs セルビア・モンテネグロ! このWCで見た中ではベストのおもしろさだった。スコアは4-0だったけど、セルビアもけっこうゴール近くまでは攻め込んでいて、そこから決定打を打たせないアルゼンチンの自在な守りがまた見ものだった。
 さんまはミッシ、ミッシと連呼してたけど、それよりすごかった、アルゼンチンの二点目。ゴールのいたるまでのすべてのパスがマジックだったよ。
 パスの相手への目線はほんのチラ見だけ。そのチラ見からコンマ何秒後の各選手の動きと自分の位置との関係がすべてイメージできた上で、たった一人に届けるパス(路)が開けているのが「見える」。「見える」といってもそれは視覚で見るのではない。ほんのわずかな過去の視覚をもとに、時空間に広がったイマジネーションで「見える」。そして、彼が広げるであろうイマジネーションの中にわたしが走り込むと、そこに現実にボールがやってくる。そういうことってあるんだな。


20060615

 いつもながら、木曜日は朝からずっと実験講義講義会議etc.。家で野菜カレーを食し人心地。サッカーを見る気力もなく蒲団に沈没。


20060614

その気にさせられて、私は私に気づく

定延利之「日本語不思議図鑑」(大修館書店)。定延さんのこれまでの仕事をわかりやすくまとめた内容だが、各事例の取り上げ方がじつに思いがけなく、かつ絶妙に理論のツボをクリアカットするものばかり。切れ味のよい理論家は切れ味のよい事例を選ぶ、というお手本のような内容。
 たとえば「タモリは佐藤さんよりもスイカに近い」「『あなたとわたしと音楽』よりも『あなたとわたしと音楽と』という言い方のほうがアダルト」「『こんなトマソンがたまにある』という路上観察は、冒険である」などといった、ジャポニカロゴスでは語られない日本語の話が読めますですよ。

 中でぐっときたのが、キャンディーズの「その気にさせないで」という曲タイトルを手がかりに、「なる」「する」「させる」の違いを説明する話(こう書いただけで、すでに定延ワールドだ)。

 定延さんによると、「照明のスイッチがオンになる」「その気になる」のように「・・・なる」型のデキゴトは、一つのプロセスからできているという。たとえば、スイッチの場合は、「スイッチがオフからオンに変わる」で1プロセスだし、その気の場合は、「その気のない状態からその気のある状態に変わる」で1プロセス。
 これに対して「・・・する」型のできごとは二つのプロセスからできていると考えられる。たとえば「一郎が照明のスイッチをオンにする」では、「一郎がスイッチを押す」→「スイッチがオンになる」という二つのプロセスが入っている。
 しかし、一郎が自分でスイッチを入れるときに、「一郎がスイッチをオンにさせる」とは言わない。いっぽう、一郎が誰かほかの人にスイッチを入れてもらうときは、「一郎が二郎にスイッチをオンにさせる」と言える。なぜか。それは「・・・させる」型のできごとは三つのプロセスからなっているからだ。たとえば「一郎が二郎に命令する」→「二郎がスイッチを押す」→「スイッチがオンになる」というふうに。

 さて、ここで問題。
 「あなたは私をその気にさせる」は、上の理屈でいえば、三つのプロセスからなっていることになる。なぜ「あなたは私をその気にする」という二プロセスではなく、「その気にさせる」という三プロセスなのか。定延さんの答えはこうだ。
 「あなたが私に魅力を振りまく」→「私の心内の『恋愛プログラム』が作動する」→「その気になる」
 つまり、あなたは私を直接その気にさせるのではなく、私の中のプログラムを作動させている、という感覚がここには働いているのだ、というお話。
 わあ。深いな。

 さて、ここまで読んで、わたしはふと妙なことに気づいたのです。もし「その気にさせる」という表現では恋愛プログラムが作動しているのだとしたら、なぜ、「その気にする」という表現が不自然なんだろう。だって、もし恋愛プログラムが作動してるなら、
 「恋愛プログラム作動」→「その気になる」
 という二プロセスを表すような表現、つまり「その気にする」という表現が自然に響いてもいいわけじゃないですか。

 で、さらにこう考えました。
 おそらく、わたしたちの恋愛プログラムは、普段は意識できないものであり、自分自身と区別ができないのです。だから、「恋愛プログラムが作動する」ことと、「その気になる」こととは区別されない。その結果、「その気になる」という1プロセス表現が行われ、「その気にする」という表現はなんだか奇妙に響く。
 ところが、そこに他者がかかわってくると、わたしたちは自分の心内に「恋愛プログラム」の存在を発見する。つまり、私の中に、別の私が目覚める。だから、いきなり「あなたは私をその気にさせる」という表現が可能になる。
 つまり、わたしは他者によって初めてわたしを知る、という現象が、日本語表現の中に組み込まれているわけです。

 うーん。深いな。定延認知言語学おそるべし。

 スペインvsウクライナ。ほとんどスペインのパス回しを見るようなワンサイドゲーム。4点目にいたるパスとシュートの弾道はとても美しかった。


20060613

6,7月は鼎談と絵はがきとライブ

 来週からあれこれやります。

 まず、6/24は梅田哲也さん、大友良英さんとの鼎談です。

shin-bi(京都)6月24日(土)19:00 -
「感覚を拡げる −鼎談・音楽が生まれるとき- 」

 7月は、大阪のworkroomで、絵はがきの展示をやります。

workroom(大阪)7月18日(火)〜29日(土)11:00am〜8:00pm(入場無料)
「ドイツ・フランスの初期絵はがき展」

 workroomの場所はこちら。昼間はカフェ。充実の書棚から本を取り出して、中之島を眺めながらゆっくり読書でくつろげます。

 展示期間中、7月22日にレクチャーをやります。こちらは、展示内容とはちょっと違う内容で、キルヒナーやホーヘンシュタイン、ルイス・ウェインなど、各国の絵はがき作家を紹介しながら、国境を越えてやりとりされた絵はがきについて話します。絵はがきに興味がある方はもちろん、19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーボーやユーゲントシュティル、そして写真の歴史に興味がある方もどうぞ。

workroom(大阪)7月22日(土)6:00pm
「絵はがきレクチャー:万国絵はがき合戦ー国境を越える絵はがきとその作家ー」

 さらに最終日には、かえる目のライブ。ブラジル、POPOと、わたしの大好きな二バンドが対バン。豪華だ。

workroom(大阪)7月29日(土)6:00pm
「かえるさんと愉快な仲間たち」出演:ブラジル、POPO、かえる目


20060612

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 サイトの看板を少し模様替え。上の図は、数多くの絵はがきを描いたラファエル・キルヒナーが、渡米後にブロードウェイのジークフリート・フォーリーズのミュージカル・シート「My Arabian Maid」のために描いた1916年のイラストから。彼のピンナップ時代の作品については、荒俣宏「 Girl Art—ピンナップの女神たち」を参照。その生涯とさまざまな作品については、おおよそ資料が揃ってきたので、そのうちまとめて書く機会があると思う。
 もう一枚。下は、同じくジークフリート・フォーリーズの「センチュリーシアター」のプログラムの表紙。こちらはキルヒナーではなく、Frank X. Leindecker(?)というサインが入っている。

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久しぶりに講義と会議のない日。原稿。実験用の器具を買ったり銀行や郵便局に行ったりするうちに日が暮れる。こういう外回りの雑事というのは嫌いではない。手芸屋で暗幕を買い、ホームセンターで買った暗室用のつっぱり棒を背負って田圃のわきを自転車で行くと、もうTシャツ一枚でも蒸し暑く、顔に羽虫が当たり、口を開ければカエルよろしくいくらでも餌が食えそうだ。ああ、今年も実験の季節がやってきたなという感じがする。

集まりすぎた運気

 夜、日本-オーストラリア戦。最後の数分でみるみる三点を取られて、なんとも悔しい試合だったが、いろいろ考えさせられた。
 この日の川口は前半からファイン・セーブを連発し、きわどいところでオーストラリアの攻撃をしのいでいた。正直言って、こんなに何度もセーブが続くなんて、話がうますぎる、と思ったくらいだ。
 日本の一点は、目の覚めるようなシュートというよりは、ラッキーな一点であり、前線ではクロスが決まらない場面が目立っていた。ここ数試合でようやくW杯慣れした目から見ると、日本の攻撃はなんとももどかしく、「日本が勝ったら、これは川口の日だな」と思わせる展開だった。
 それだけに、最初の一点が、川口がゴールを空にしてしまったそのときに決まったのは、かなりショックだった。この日の運気を支えていた川口がゴール前からいなくなり、不在の部分にずばりボールが入った。そのことで、いちばん痛いところをずどんと突かれたような感じが、見ていてしたのだった。
 もちろんこれは、テレビ観戦しているわたしの気持ちの動きに過ぎないのだけれど、最初の一点以降、なんだか選手の足が止まったように見えたのはなんとなくわかる気がしてしまった。あそこから三点連続で取られるというのは、ヒディングとジーコの選手交代のさせ方にも差があったのだろうけど、川口に運気が集まりすぎた結果だったようにぼくには感じられた。リスク分散ならぬ、運気分散という問題があるのかもしれぬ、と考える。


20060611

彦根絵はがき

 中日新聞に「珍しい彦根絵はがきを探しています」という記事が載ったのをご覧になった地元の野瀬さんからさっそくメールで連絡があった。日曜ということもあり、さっそくお邪魔して、あれこれお話を伺う。店の奥を改造した小部屋は、ちょっとしたコレクション図書館になっており、スメタナの「わが祖国」が流れる中(ああ、なんだか日曜の朝だなあ)、お話に興じているとみるみる3時間ほど経つ。わたしも若輩者とはいえ、目の前の絵はがきがどれくらいの手間暇をかけて集められたものかは察しがつく。その膨大な量にはため息が出るばかり。当初は自分の手持ちの絵はがきでなんとか一冊、と思っていたが、もう明らかに、野瀬コレクションにおすがりしたほうがよいものができるに決まっている。まずは、手軽な本を一冊作るとして、できれば、野瀬コレクションを前面に押し出して、図像中心の本をきちんと作れるといいなと思う。

 夜、オランダ vs セルビア・モンテネグロ。オランダの(なかなか決定打がでないけど)細かいパス回し。メキシコ vs イラン。結果はメキシコの勝ちだったけど、前半にイランが点を取ったおかげで息づまる戦いに。毎度、ワールドカップのときだけのにわかサッカー観戦なので、雑ぱくな感想しかわかないのだが、ボールが吸い付いていくようなトラップやワンタッチパスのを見るのは愉しい。足がボールの勢いを吸収しようするとき、あたかもボールを招き入れるかのようにその軌跡をなぞり、ボールが足に当たった瞬間に柔らかく各部が連動して引く。その細かい動き、そこで必要なテクニックをわたしは知り得ないけれど、それが、ものの「吸い付く」ときのさまと同じである、ということはできる。


20060610

 夜半を過ぎてドイツコスタリカ戦を見るが、前半を見終わったところで、画面の中のボールに目を凝らすのがどうにも辛くなり、観戦離脱。ここ二、三年で動画に対する耐久力がぐっと弱くなったような気がする。W杯は毎回、人並みに楽しみにしているのだが、今回はまともに見ることができる試合がいくつあることやら。

はがきと短詩型文学

 Fanelli & Godoli 1987 Art Nouveau Postcards を入手。アール・ヌーボー絵はがきの勉強でもするか、と思って買ってみたのだが、これはかなり良い。アール・ヌーボーのみならず、絵はがき文献を豊富に渉猟しており、図版も充実している。以前から、フランスのアール・ヌーボー絵はがきの多くはポスターやチラシの複製で、19世紀から20世紀初頭の絵はがき文化を牽引したのはむしろベルギーやドイツ語圏ではないかという気がしてしょうがなかったのだが、この点でも、しっかりとした記述がなされている。絵はがき史に関して言えば、これまで呼んだ絵はがき本の中でいちばんバランスがとれているのではないかという気がする。

 そのFanelli & Godoli の本の注に、ピーター・アルテンベルクに関する記述があった。いわく「(絵はがきの)メッセージの短さは文学のジャンルに影響を与えさえした。ピーター・アルテンベルクは短い思考や描写を「はがき」と題して書くことに長けていたし、1907年にクレメント・リッチーは「絵はがきのためのファンタジー」という詩集を出している。ルイ・ブラールの喜劇「郵便葉書」は1903年に上演されている。」
 ここにさらに、日本の「ハガキ文学」のような動きを付け加えることができるだろう。はがきは短詩型文学に世界的な影響を与えた、ということになる。
 さて、アルテンベルクの絵はがき図像入り詩集は、どこで入手できるだろうか。

私信を書く暇

 「絵はがきの起源」のフランク・スタッフはジェームズ・ダグラスが1907年に書いた次のような文章を引用している。

 はがきは私たちの習慣を静かに改革した。思いがけないことに、わたしたちははがきによって、手紙を書くことから会報されたのである。かつて友に手紙を書くことが必須のこととされ愉しみでさえあった時代があったことを、覚えている方もおられるだろう。そのころは、時間が山のようにあった。じっさい、我らが祖先は、椅子に座り、何時間も長い手紙を書いたのであり、こうした手紙は熱心な編集者にとっていまだに貴重な一次資料であり続けている。ロンドンには、まだラスキンの未発表書簡が何トンもあるという話も聞かれるし、じっさい、スティーブンソンの日の目を見ない手紙が何ポンドもあるという。今は亡きこれらの作家が、私信を書く暇を惜しみさえすれば書けたであろう幾多の本を思うと悲しみを覚えずにはいられない。幸い、現代の作家はこのような骨折り仕事から解放された。

・・・現在、自分の書き込んだブログや誰かに宛てた長文のメールを読み返して、「これを書く暇を惜しみさえすればもっと作品が書けるだろうに・・・」と嘆息する書き手は少なくないのではないか。おそらく、いまもむかしも、誰かに宛てることでエクリチュールに火がつくことに変わりはない。そして、問題は、誰かに宛てる時間を惜しむことができるかどうかではなく、誰かに宛てて書けるかどうかだろう。


20060609

日出る出版社と孔版印刷

 「木綿屋おせん」こと彦根はサンライズ出版の岩根さんが、さっそく「絵はがきの時代」をブログで取り上げてくださった。→こちら
 サンライズから出す予定の本をうっかり各紙に「年末に発売」と発表してしまったのだが、逆算すると、9月末には原稿があがっていることになる。もうジタバタしてもしょうがないので、原稿があがったヴィジョンを念じることにする。

 ところで、サンライズ出版は、印刷史上、ひじょうに興味深い経緯を持つ出版社である。創業者の岩根豊秀氏は、孔版印刷、つまり謄写版印刷の専門家であった。謄写版といえば、すぐに思い浮かべられるのは黒一色のいわゆる「ガリ版」だが、じつは多色刷りを使えば独特の肌理を持った味わい深い表現のできる、けっこう奥の深い印刷なのである。たとえば、山形謄写印刷資料館のWWWサイトを見れば、その奥行きはうかがい知れるだろう。
 謄写版による絵はがきは、学校の自主制作ものなどで見られ、その独特の肌理は味わい深い。サンライズ出版とのご縁を機に、さらに興味が深まりそうだ。そういえば、謄写版の元祖である堀井新治郎も滋賀県出身。蒲生町にあるという「ガリ版伝承館」にもいずれ行ってみよう。

モニタの上の雲

 部屋の窓に向けて机を置いているので、パソコンを打ちながら、外の気配がときどき割って入ってくる。原稿を打ちながら、目の上のあたりがじんとして、次にうすぐらいカタマリがよぎったので驚いて顔を上げると、夕風に雲が流れていくところだった。


20060608

 朝から実験講義講義会議で日が暮れた。中日新聞に記事掲載。さっそく大学に絵はがき情報あり。話をうかがうと珍しいものばかりで、お会いする約束をとりつける。

 田中求之さんのページにもうれしい感想が。田中さんのスクリプトには、HyperCardでスタックを作っていたころずいぶんお世話になった。
 本を書くときは特定の誰かに宛てているわけではない。いや、正確にはこの世あの世の人々を思い浮かべて、「この人ならどう読むだろう?」と考えることもあるのだが、それは誰か一人の姿をとるわけではない。
 にもかかわらず、いったん書き終えてしまうと、知己の方々からの感想がうれしかったりするから不思議なものだ。


20060607

 そろそろ4月からの疲れがたまってくる時期。毎年、6月から7月の前半というのがいちばんきつい。朝から原稿。なぜかパソコンを見つめているとすぐに目がしょぼしょぼしてくる。

 「絵はがきの時代」補遺に、「新小説」明治三四年七月号付録絵はがき。これは本の23p.に載せた絵はがきのカラー図版。


20060606

光を観る - ドイツ・フランスの初期絵はがき展

 workroom(大阪)にて7月18日(火)〜29日(土)に「ドイツ・フランスの初期絵はがき展」を行います。「絵はがきの時代」に使った絵はがきを含め、19世紀から20世紀の、ドイツ・フランス・ベルギー・オーストリアなどの観光絵はがきを多数紹介。多色石版印刷の美しさと、当時の人々の絵はがき熱を味わっていただく展示です。
 開催中に二つほどイベント。7/22(土)には絵はがきに関するレクチャー「万国絵はがき合戦 ー国境を越える絵はがきとその作家ー」。ラファエル・キルヒナー、ルイス・ウェインなどの作家を中心に据えながら、イラストレーションが絵はがきのやりとりによって世界化していく過程を語ります。さらに、私がボーカルをつとめる「かえる目」のライブも行われることが決定。間もなくレコードが発売される「ブラジル」も出演する予定です。というわけで、7月下旬はworkroomにぜひお越しを。

 朝、講義のあと、彦根市役所へ。市役所には各新聞支局のプレスセンターがあって、大学でなにか報道できることがあればここで発表が行われる。ちょうど彦根の絵はがき本の話がまとまったところなので、彦根絵はがきと「絵はがきの時代」を持参して、一時間ほど話す。
 そのあと、会議、実験、会議。結局朝から飯を食う暇なし。ズタボロのように帰宅。


20060605

教育実習を見学する

 ゼミ生の教育実習を見学しに京都へ。うちの専攻は教職の資格を扱っているので、たまにこんな業務もある。
 朝六時に出て、向こうに着いたのが八時過ぎ。いささか眠いが、登校する高校生たちに混じって通学路を行くうちに、なんだかゼミ生のルーツを遡っているような不思議な気分になる。
 授業のほうは、実習中最初の授業ということもあり、緊張も見えたが、自分で工夫しているところもあり、これなら安心だと思う。

 それにしても、授業見学はなかなかおもしろい。大学のお客様であるところの高校生の生活を間近に見せていただいているわけで、これは一種のコンシューマー見学だ。高校生の授業が大学の授業に較べて相当パンクチュアルであることも改めて思い知ったし、そういう環境にいた学生が大学に入っていささかルーズな時間感覚になるときに何が起こるかということもおおよそ想像がついた。
 学生がどのようなところでざわつき、身体が乗り出したり緩んだりするかが、後ろからじつによくわかる。ああ、板書するには、それをノートに取りたくなるほどに身体が乗り出したところを見計らうべきなのだな、というような、講義の呼吸に関する技法をあれこれ思いつく。
 今日見たのは公民の授業だった。ここ三年ほど、高校の公民では、情報リテラシーやメディア論をある程度カリキュラムに取り込んでいるのだが、っさいに見ると、ネットでのプライヴァシーの開示問題などけっこう突っ込んだ話も授業で扱われている。後期の講義でメディア論を扱う予定だったので、これはよい勉強になった。

 午後、彦根に戻る。サンライズ出版の岩根さんと絵はがき本出版の計画を密談する。来年は彦根城築城400年なので、それに向けて彦根の絵はがきを浸かった本を一冊作ってしまおう、というわけである。幸い、この数年間、絵はがきを頼りに彦根のあちこちを訪れてきたので、話題はいくらでもある。
 近くの本屋で、サンライズ出版の「別冊淡海文庫」をいくつか求め、できあがりのイメージをふくらます。
 今年の夏は絵はがきで忙しくなりそうだ。  


 

20060604

 明日から実験なので、音声の準備など。
 HDレコーダーに録画しておいた「吾輩は主婦である」を見るが、これはおもしろい。斎藤由貴の歌声と演技はすばらしいのひとこと。もんなし〜。


20060603

襖と戸外

 朝、海岸べりを散歩。曇天の下、日本海をぼんやり眺めてから朝食。部屋は清潔で二食ついて温泉もあり、駅から送迎までしてくれて、7800円なり。東京の食事のないビジネスホテルと同じ料金だ。

 応挙で有名な大乗寺へ。
 応挙の襖絵の一部は応挙展で見ていたのだが、じっさいに寺に来てみると全く印象が異なる。
 あたかも合わせ鏡なのである。
 孔雀図は寺の前庭に向かう部屋の襖に描かれており、ちょうど前庭の松と、絵の中の松が呼応する造りになっている。山水図は日本海の方角に向いた部屋に描かれており、これまた、現実の海と襖の海とが呼応する。
 襖絵には、応挙らしい大胆な空白があり、自分が絵の空白に吹き寄せられるのを感じる。そのいっぽうで、背後にある外の空間の気配があって、頭のうしろのほうがじんじんしてくる。朝食前、何の気なしに海辺を散歩していたこともあって、うしろあたまに感じられる海の気配は濃厚である。
 仮想空間に対峙すると、往々にして「幽体離脱感」は起ち上がるものだが、これほどまでに壮大なスケールで自分が前と後ろに分かたれることは滅多に経験できることではない。
   説明をしていただいてからも、もう一度襖絵の前に行って、しばらく呆然とする。昨日のハンミョウの小ささのこともまた、思い出される。小さな鏡と大きな鏡のあいだを行き来すること。

 二階には弟子の源き(王へんに奇)の描いた鴨之図と蘆雪の「群猿図」がある。こちらでは畳に上がらせていただき、比較的狭い部屋で、絵と親密になることができる。幸い他に訪れる客もなく、昼過ぎまでゆっくり絵に囲まれながら時を過ごす。
 鴨の体から一筆で発せられた波紋のすがすがしさ。刷毛で描かれた猿の見事な毛並み。蘆雪の絵は串本の寺にも多数あるそうだ。いつか訪れてみたい。

 カニタクシーの運転手の巧みな話術に乗って、余部の鉄橋を見に行く。土曜日でカメラを下げた人多数。鉄橋端の余部駅から城崎から京都まわりで彦根に戻ると、もう六時を回っていた。


20060602

ハンミョウリレー

 学校説明会のために舞鶴へ。彦根からなら、福井県まわりで行けば速そうなものだが、じっさいには北陸本線の接続が悪いので、京都から福知山経由で行くことになる。片道約三時間。
 早めに着いたので、手近な寺に行ってみる。駅から歩いてすぐのところにある円隆寺は、どうやら四国の霊場を一同に祭っているらしく、そこここに四国の寺の名前が掲げられている。
 寺の奥は意外に深く、どうやら後背の山に道は続いている。登っていくとハンミョウが飛び立つ。遠くで止まって、こちらが近づくとまた遠くで止まる。一匹がいなくなると、また別の一匹がどこからともなく飛んできて道案内をする。ハンミョウリレーに誘われて思わず頂上まで登りそうになったが、説明会に遅れそうなのであわてて降りる。
 それにしても、ハンミョウの体はどうしてあのように美しいのだろう。翅に入った白い紋は水の反映が振動しているようなのだが、もう少しでその秘密がわかる、というところまで近づくと逃げられてしまう。ハンミョウはじつは鏡で、この世はほんとうはあんな色をしているのではないか。

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安寿の胸中で厨子王は川を遡る

 学校説明を終えて西舞鶴駅に行くと、北近畿タンゴ鉄道というのがある。終点は豊岡で、途中、天の橋立も通るらしい。車中からそんな名所を見ることができるとは楽しそうだ。改札の向こうを見ると、列車は窓が広くとってあり、眺めもよさそうに見える。豊岡まで行けばそこから城崎は次の駅で、さらに向こうには香住がある。香住には前から行ってみたいと思っていたので、これに乗ることにする。

 以前、城崎に行ったときにも思ったが、日本海側の鉄道に乗っていると、海の気配があやふやになる。湾は深くえぐれて、両側から山が迫っているので、遠目には谷か湖のように見えることが多い。しかも、列車は隆起した海辺の岸壁をかわしながら、ときには海からぐっと離れ、かと思うといつの間にか裏側から回り込んでいるので、思わぬところで眼前に川が開け、海になる。

 列車はまず由良川沿いに出る。円山川がそうであったように、ここもまた、ゆったりとした川の流れが海を予感させながら、河口とおぼしきあたりに陸地が入り込んで、海の気配があいまいにされている。雲は全天に広がって、鈍い頭痛のようにに、なだらかな山並みと向こうに海の気配を隠している。
 由良といえば「由良の戸を渡る舟人梶をたえ」だが、駅でもらったパンフレットによれば、ここは安寿と厨子王の伝説のあったところでもあるらしい。幸い持ってきたパソコンに山椒大夫のテキストが入っていたので読んでみる(それにしても「山椒大夫」を読むなんて何年ぶりだろう)。

 安寿と厨子王にとって、海は忌むべき場所である。二人は海上で、人買いの策略によって母親、女中と離ればなれにされ、由良の戸へ連れてこられた。人買いは海からほど近い場所に居を構えて、海から来た者たちを山陰に隠してしまう。
 安寿は毎日、潮を汲みに浜辺へ出掛けさせられる。が、眼前に開けている海は人買いの道であり、そこに救いはない。救いがあるとすれば、それは、逆に川を遡ったところにしかない。山陰は川を遡る人を隠してしまうだろう。隠す者がもし人買の仲間なら、一巻の終わりだ。しかし、それが人買とは別の人種であるなら。そしてそこから、細いわずかな可能性をたどって京にたどりつくなら。安寿は誰にも打ち明けずに、そのような想像をめぐらしている。安寿の胸中で厨子王が川を遡る。由良川の上流に向けて幾重にも折り重なる山々は、なるほどそのような想像を許すように見える。

一荷ずつの勧進

 今回読み返してなんだかほうっと息をつくような気がしたのは、最後の親子の対面・・・のところではなく、意外にも、物語のまだ中盤の部分である。

 山椒大夫のところへ連れられてきた厨子王が初めて柴刈りに出される。馴れぬことで、日に三荷苅る筈の柴を、まだ少しも苅ることができない、というときに、樵が通りかかって、手本代わりにすぐに一荷苅ってくれる。
 いっぽう、安寿のほうは海に汐汲みに出されたものの汐の汲みようを知らない。それどころか波が杓をさらわれてしまい、ああどうしよう、というときに、隣で汲んでいる女子が手早く杓を拾ってくれ、手本代わりに一荷汲んでくれる。

「最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進を受けて、日の暮までに首尾好く調った。」

 ああ、こういうのを「勧進」というのだな、と思ったときに、列車が久美浜に出た。その、湖のような入り江を見て、とりかえしのつかない生を、誰かのおかげでまだ生き延びることができることができる心持ちがひたひたと浸みてくるような気がする。

 豊岡から山陰本線に乗り換え、30分で香住へ。駅の改札にはカニのオブジェに「カニ迎」の文字。あちこちカニだらけ。国道沿いの宿の飯はうまく、裏の帝釈天と田圃もゆかしい。


20060601

ポテトチップの厚さ

 正規分布の分布の例として、教科書にはよくネジなど工業製品の品質管理の例が挙がっている。とはいうものの、自分でボルトを締め、ナットとの口径のわずかなズレによって、ドライバがつっかえた経験を持たない人には、ぴんと来ない話なのだろう、学生の反応はいまひとつ上がらない。
 それで、その場で、「もしポテトチップの品質がブレまくったら、一袋の中に堅ポテトやら薄ポテトが入ってえらいことになるではないか」という思いつきを話すと、意外なほど受けた。受けたのはいいが、ひとつのマシンからスライスされるポテトチップの厚さの分布は、はたして正規分布になるのであろうか。


 
 

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