The Beach : April b 2002


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20020430

 年度予算のほとんどを投入して「大正の読売新聞」CD−ROMを購入。パラダイス。検索猿と化す。昔、図書館で懸命にマイクロ回して自力でこの資料引き当てたよなー、とかいらぬ感慨まで込み上げてくる。
 検索は全文検索ではないので、事件の前後や年月日などにカンを働かせないと思わぬ漏れがありそう。それでも、図書館のマイクロで視力激減するよりはずっと楽。




20020429

 横浜へ。港の見える丘公園はいい天気で、バラを写すカメラマンがあちこちに。人出を抜けて神奈川近代文学館であれこれ文献収集。展示室で夏目漱石展。丁寧にふられたルビ。書きなぐりではなく、一定の筆圧で進められたことば。ワープロではなく原稿用紙に書く胆力。
 
 晩年の山水画を見ながら、縦の奥行きについて考える。パースペクティブとしてのパノラマ。

 開港資料館に移動してさらに文献収集。中華街裏で軽く飲み食いして新幹線。

 Bateson & Martin "DESIGN FOR A LIFE" Touchstone.遺伝決定論かまびすしい中、発達の重要性を説く本。マーチンとベイトソンは「行動研究入門」の著者でもある。ごく平明で、学部レベルの外書購読に良さそう。ただ、発達の可塑性よりも決定論の比重が高い点が気になる。教育熱心な親が読むと、「そうか、氏も育ちもなのだな」と、さらに教育に力を入れちゃいそうな感じ。




20020428

 朝から生態学事典の「感情」の項。
 阿佐ヶ谷で方法芸術祭。焼肉の点字レシート。呼び出しの三輪さんマッチョ。

会場は元薬局。開始前に近所のおばあさんなのか、「すいません、トラベルミンあります?」とたずねてきたのがおかしかった。
 高橋さん、三輪さんの曲を聞きながら「感情」と「感情表出」の差について考える。
 上は文化ピアノ教室。6台のアップライトピアノが狭い敷地面積に並んでいる。扉はベニヤの引き戸。およそ防音効果があるとは思えない。受付けには各室とつながるブザーの押しボタンが六つ。それを使った松井茂「純粋詩」。
 下ではMacintoshのフォルダ入れ子を使った「純粋詩」別バージョン。「方法」は「表出」のバリエーションにおいて明らかになる。
 中ザワヒデキ「質量測定」。Macの「計算機」に式をペーストするときにどよめきが。

 このあたりで、三輪、松井、中ザワのスタンスの微妙な差が明らかになってきている。三輪さんはどちらかというと、方法の秘匿や解けなさについて考えているが、松井さんや中ザワさんは、方法の表出や、解けていく時間感覚について考えている。

 最後は「方法ババヌキ」。三人によるババヌキ。最初は普通のババヌキに見える。が、しばらくすると、各人が、必ず相手の札の一番左からとって、自分の札の一番右にそれを差していることに気がつく。そのことに気づいたとたんに「ババヌキ」が「方法ババヌキ」に変質する。
 が、その時点ですべてが解けるわけではない。はたしてこのやり方ですべての札が二枚ずつ付合するのか、見ながら考えてしまう。考えるうちにも方法ババヌキは進む。なんだか、3つに分断されたエリアを一つの流れが流れていくように見えてくる。三輪さんが5枚で、いちばん手札が多い。もし同じ札は必ず6枚以上を隔てて隣り合っているとすると、この状態はもはや定常状態である。
 と思っていると、やはり場は動かなくなった。札は流れている。待ち合わせの時間がきたので会場を出る。

 相方と大宮へ。夜、NHKで「サンセット大通り」。「雨に唄えば」がトーキーがサイレントを裁く映画だとすると、「サンセット大通り」はサイレントがトーキーを裁く映画。死んだはずの主人公がナレーションしているのが妙。ナラティブであることはサイレントの特質で、それがスピーカーから聞こえてくることはトーキーの特質。
 




20020427

 「感情」の項目を書くための資料集め。

 夕方、浅草へ。木馬亭で「omnibus live うた うた、う 2002 はる 」。浅草で唄うふちがみとふなとが目当て。

 しかし、最初のイマイアキノブで石化。
 上野茂都でようやく石化から回復。魚を焼く段取りを延々と唄うラジウム温泉のような世界。あと1時間くらい聞きたかった。
 渡辺勝の一弦一弦をばらばらと弾くストロークにちょい涙。
 ふちふなはいつもに増して演芸感ただよって楽しい。なにしろ浪曲師の提灯が両側にずらりとならび後ろには扁額がかかり、出演者は全員靴下で舞台に上がるので、いやがうえにも演芸になる。007のテーマも含めて。
 が、しかし。最後の中川五郎で再び石化。中学の頃、「受験生ブルース」を聞いて、この種のフォーク世界を受け入れることのできず、フォークにはまっている同級生と決して語らうことのできない自分を自覚した。年を経て、もうそろそろ受け入れることができるようになるかと思ってガマンして聞きつづけたが、ダメだった。ああ鬱陶しい自己愛。他人に日記をお見せしている自分の自己愛にも自家中毒。あまりのダメージに、ふらふらと外に出て「つくし」でもんじゃ。




20020426

 TVのCMを見ていて、ドラゴンスピーチで音声認識をさせたら「クォークカード」が「スモークサーモン」になるかもしれないと思ってやってみる。結果は「項目カード」だった。

 喜多荘太郎「ジェスチャー 考えるからだ」金子書房。ジェスチャー研究入門としては現時点で最適。内容はMcNeill編の"Language and gesture" に収められていた論文にマックス・プランク研究所のプロジェクトを合わせたものといった感じ。




20020425

 「浅草十二階計画」に「東京名所浅草公園 吉原芸妓冨次
」を追加。明治二四年の石版画について。




20020424

 「なぜ昔の映画では人はあんなに速く動くのか」という話を先日日記に書いたが、青山勝さんからこれについて以下のようなメールをいただいた。

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「なぜ昔の映画では人はあんなに速く動くのか」について、僕もたしかなことは分からないのですが、

まず第一には、単純な技術的なミスないし開き直りだと思います。

サイレント映画の一秒あたりのコマ数というのは、いろいろあって、たとえば18コマだったりするわけですが、それを今の機械で上映するとき、どうしても24コマにならざるをえない場合が多いわけです。それで動きが速くなる。

京都映画祭などでは、調整できる機械が使えるので、貸出先にコマ数を確かめたり、実際に試写して動きを確かめたりして調整します。

と同時に大事なのは音、ないし音楽ですね。

サイレントといっても、音楽は原則として伴っていたわけです、当時は。で、音楽があると、なんとなく間が持つんですね。ところが現在上映しようと思うと、京都映画祭など、ある程度予算のある場合は例外として、生の音楽をつけることは現実的にほぼ不可能。この環境で滑らかな動きの映像を上映してしまうと、物理的に上映時間も長くなるし、映画教(狂)の修道士たちはともなく、実際、かなり苦痛な経験になってしまうということがあります。それで、いわば確信犯的に上映スピードを上げて上映する、ということもあると思うのです・・・

・・・といった退屈なことを考えてしまうのですが、テンポという観点でリュミエールとメリエスを比較してみる試みは面白いかもしれませんね。見直してみます。ただ、ここでも音の問題が介入してきそうです。メリエスの映画は横で「ボニマンター」という弁士が解説を行うことを前提に撮られているはずですから・・・

突然失礼しました。

では。
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 そうか、撮影のときと上映のときで秒あたりのコマ数が違うかもしれないというのは考えていなかった。
 というわけで、手元のDVDにどれくらいのレートでフィルムが収められているのか、スロー再生して数えてみた。Landmarkシリーズでは、リュミエールの「工場の出口」は1秒間に20コマ、メリエスの「月世界旅行」は1秒間に15コマだった。 オリジナルが果してこのレートだったかどうかぼくは知らないが、少なくとも作家ごと(もしくは作品ごと)にレートを変える配慮が働いていることは確かだ。

 メリエスの映画には切り替わりの部分に限らず、どこか手品のような不連続感があって、それがいかにも「魔術」感を高めている。あのメリエスの「速さ」は、単なる動きの速さというのではなく、コマ数の少なさ(ぎくしゃく感)に由来するのかもしれない。

 サイレント時代の音楽についてもいろいろと考える必要がありそう。


 音声認識ソフトの「ドラゴンスピーチセレクトver. 6.0」を購入。さっそくいくつか録音して認識させてみる。「ポストモダン」と音声入力すると「ノストラダムス」になった。
 ぶつぶつ小声で録音すると、音声認識妄想が爆発するのか、トンデモなフレーズが連続して楽しい。




20020423

 「浅草十二階計画」に「十二階より観たる飛行機」を追加。飛行機揺籃期に描かれた岡本一平の漫画漫文。




20020422

 今年のブラインド・ウォーク実習は、味覚の問題を扱うことにした。彦根のパラダイス、駄菓子問屋の三口屋に行って駄菓子を数種類買ってくる。

 学生がアイマスクをした状態で、机の上に駄菓子を一粒ずつ盛って置く。喉が乾くだろうから、左手には紙コップを握らせて、そこにお茶を注ぐ。「ひゃー、冷たい」という声。膜一枚で隔てられた液体の温度のリアリティ。

 アイマスクをしたまま全部食べきってもらい、その後、紙にどんな菓子だったかを書いてもらう。
 梅味のポッキーとかオブラートで包まれたグミとかいろいろ奇を衒ったつもりだったのだが、いちばん劇的な効果があったのは、「ソーダ味」の駄菓子と、苺麦チョコ。前者は、ほとんどの人がその触感から「さくらもち」「さくらんぼ味」と答えていた。後者はほとんどの人が「苺」とはきづかず、ただの「麦チョコ」と書いていた。実物を見せたときに、この二つがいちばん反響があった。

 つまり、色の衝撃なのだ。さくらんぼ色ではなくソーダ色。チョコ色ではなくピンク色。頭の中で思い描いた色と実際の色とのギャップが驚きだったというわけ。
 ただし、だからといって、目で見た色が正解で、目に見えない色が間違いと言えるだろうか。目をつぶったまま構成される色だってありうるだろう。
 改めて、レイ・チャールズにとっての「色」や、盲目物語の「色」について考えてしまった。

 来年は、あらかじめどんな色かを書かせるようにしよう。




20020421

 「浅草十二階計画」に、「浅草公園遊覧之図」を追加。明治二四年の錦絵。




20020420

 今日はAIBOの無線LAN操作をやってみる予定だったのだが、カードが間に合わなかったので、高橋さんと「キーボード交換チャット」をやってみる。やってみる、といっても別にそういうチャットがあるわけでなく、勝手に発明したやり方に過ぎない。方法はいたって簡単で、二台のデスクトップパソコンと、タッチタイピングのできる人が二人いればできる。チャットの好きな人は一度お試しを。

 まず、二台それぞれでエディタを起動する。そうしたららUSBケーブルを引っこ抜いて、お互いのキーボードをクロスにつなぐ。つまり、こちらのキーボードで打つ文字は相手のモニタに映り、逆に相手のキーボードで打つ文字はこちらのモニタに映る。

 自分の打った文字は見えないので、相手の反応が頼りだ。はじめはちゃんと表示されているのか不安で、相手の発言と自分の発言との間にほんとうに関連性を考えていいのかどうかためらってしまうけど、馴れてしまうと、あまり疑問を持たなくなる。漢字変換はモニタできないので、一応ひらがな縛りをかけておく。

 やり方はいたって簡単だが、かなり劇的な効果がある。なにしろ打つ端から全部相手に見えてしまう。だから最後まで打たなくても返事が返ってくることがある。しかも、あらゆる打ち間違いがすべて相手に見えてしまう。バックスペースで消す様子までわかってしまう。訂正せずとも伝わってしまうこともある。
 何より、おもしろいことに、これだとチャットの時間構造ががらりとかわってしまう。相手のキーを打っているスピードが見えることで、とても生々しく感じられてしまう。

 なんでこんなことをやってみるかというと、前にbit別冊に書いたことだけど、現在のチャットの時間構造というのは、送信キーによって拘束されていると考えているからだ。送信キーを押すまでは、何を打っても相手に伝わらない。このことが、チャットの余裕を生み出すとともに、リアルタイム性を削いでいる。そこで送信キーのいらないチャットをしてみたらどうなるかというのをやってみたというわけ。詳しい考察はまたいずれ。

 まったく突然に思い出したのだが、むかし「みんなのうた」でガロが唄っていた「どこまでも駆けてゆきたい」ってどこかでCDになってるんだろうか。この曲はぼくがシンセサイザーの音に衝撃を受けた最初だった。作・編曲は冨田勲で、「月の光」よりも前だったんじゃないか。そして「月の光」よりも、この曲の新しい使い方に参っていた。リック・ウェイクマンもELPも幼稚で聞く気がしなかったけど、この曲には強烈な未来を感じた。というわけで、ぼくにとっての電子音楽ジャパン元年は1973年。遠くから蜃気楼のように漂ってくるコーラス(いま思えばこれもモーグだったんじゃないか)もただならなかった。作詞は谷川俊太郎だったと思う。








20020419

 「浅草十二階計画」にとんびと十二階を追加。十二階を唄った茂吉の歌について。

 今日、その意味を考えつつ妄想を爆発させてしまった記事タイトル:「痴漢電車」風俗店摘発 「車掌役」の警笛、役に立たず

 夜、ホール『進化発生学』(倉谷滋訳/工作舎)を読み始める。いよいよ読むタイミングが来たと思う。
 読み始めたのは、訳したのが倉谷さんだからということもあるが、何より、ジェスチャー論と進化発生学にはおそらく同じ問題が共有されているに違いないという直感があったからだ。読み進めるほどにそれは当たっていたと思う。

 なにより、この本は科学史の本としておもしろい。ホールは発生学者であるだけでなく、歴史を発生的に捉えるセンスがある。この本は、進化発生学の進化発生学、あるいは発生学的科学史ともいうべき構造を取っている。

 つまりこうだ。「バウプラン」「カナリゼーション」「オポジション」「神経堤細胞」そして「相同性」といった発生学の問題がなぜ問題かを理解するには、単に現在の発生学の構造を見るだけではわからない。これらの概念が提出され、さまざまな学者によってさまざまな形に育まれてきた過程を、それこそ胚葉の発生を追うように、たどらなければわからない。
 たとえば「相同」のおもしろさを知るには、アリストテレスに始まり、キュヴィエとジョフロワの論争を経て、相同が相似と区別され、分類の入れ子の概念との結びつき、発生という時間の概念を念頭におきながら、まざまなアイディアとなって分岐していくそのさまを、それこそ動物群のバウプランを把握するように把握する必要がある。

 ホールにはそれを明らかにする力がある。それも、単にきまじめに概念のバウプランを明らかにするだけでなく、それを裏切る事例によってこちらの概念にどんでんがえしを仕掛けるエンターテイメント性まである。

 ジェスチャー論を考える上でもこの本は魅力だ(すでに半分読んだだけであちこち書き込みだらけになった)。
 進化発生学を考えるためには、空間構造を考えるだけではいけない。時間に沿って生起するものが、生起の過程や結果において表われる機能によって(あるいは機能を淘汰する自然によって)どう拘束されるかを考える必要がある。
 この問題はそっくりジェスチャー論にあてはまる。ジェスチャーは一発で為されるのではなく、時間に沿って生起する。その結果だけでなく、生起の過程もまた受信者にとってはなんらかの情報と見なされる。時間に沿って生起するジェスチャーが、その生起や結果において表われるコミュニケーション機能によって(あるいはジェスチャー機能を淘汰するコミュニケーションの規則によって)どう拘束されるかを考える必要がある。

 もうひとつ。発生学が形態学と分かちがたく結びついているように、ジェスチャーもまたその形態と分かちがたく結びついている。
 発生学では、発生によって実現されるトポロジカルな構造とその時系列変化を問題にする。発生学における問題は、そのままジェスチャーのトポロジーと時系列変化の問題に変換できるだろう。

 こうしたことを念頭に『進化発生学』を読み進めると、アイディアと警句の宝庫だ。たとえばこんなさりげない一句。


 ギーセリン(1996)のような歴史家は、機能形態学のような呼び方が矛盾形容法だと述べている。これはダーウィンが進化的にして機能的な形態学者だった(実際そうだったが)からであり、実際、形態学はそもそも機能と結びついていたのだ。かたちと機能のどちらで生物を分けるかについてのジョフロワとキュヴィエの論争は、明らかに機能と形態を対置させていたのである。


 他に、この前から気になっているデザイン史とのからみでいえば、第二部のキュヴィエ対ジョフロワの相同性をめぐる対立がおもしろい。

 たとえば、ハーバート・スペンサーによる「発生の前進的多様化」の考えやチェインバーズの『創造の博物誌の痕跡』といった1850年代の生物学からの啓蒙などは、モリスやアーツ・アンド・クラフトの精神を読み解くヒントになりそうだし、当時のスコットランド科学史(ブリュースターら)との関連も気になる。

 また、1893年のシカゴ万博を手がけたルイス・サリヴァンの「形態は機能に従う」(p135)のことばには、キュヴィエとジョフロワの論争の影が見える。

 さて、もう半分読んでからさらに考えよう。




20020418

 講義二本にゼミ一本(あ、昨日と同じだ)。アニメーション映像ゼミは、「アニメーション映画、もしくは映画というアニメーション」と題して、リュミエール、メリエス、ブラクトンといったところをお見せする。

 メリエスのカットの多用を、アニメーション前夜と読む。ブラクトンの非アニメーション作品「ゆかいなお絵かき」(1900)が、メリエス作品と酷似していることに注意。

 ブラクトンの「ゆかいな百面相」は、よく「黒板アニメ」と呼ばれるが、じつはチョークで描いたり消したりする以外に、型紙を使っている。
 「動かないはずのものが動いている」ということを強調するためのさまざまな仕掛け。たとえば、「ゆかいな百面相」のラストで、黒板を半分だけ消してなおも動かして見せるところ。

 なぜ昔の映画では人はあんなに速く動くのか。技術的には手回しの撮影機で速度が可変できたから、あるいは、短いフィルムの中で起承転結をつけるために動きを圧縮したのだ、といった説明ができるかと思う。しかし、何よりも、「動き」の強調としての高速ではないか。通常の動きよりも動いていることを覚醒させるための高速。動きからのずれとしての動き。
 リュミエールのドキュメンタリー映画とトリック映画との間で速度を比較してみること。また、リュミエールとメリエスのテンポを比較すること。

 このところ、毎日志ん生の落語を聞きながら寝床につくのだが、オチまで聞かぬうちにいつも眠ってしまう。




20020417

 講義二本にゼミ一本。

 人間行動論。人形が生む人間らしさについての講義。ラクウェル・ウェルチとマペットのミス・ピギー(そしてそれを操作しているフランク・オズ)が「I'm a woman」を唄っているシーンにおけるジェンダーの変換について。「緑でいるのもラクじゃない」を歌うカエルのカーミットとレイ・チャールズにとっての「緑」のリアリティについて。
 あとで成田くんに、ラーメンズの白黒人形の話を教わる。ええ話や。来週の講義に使わせてもらおう。

 夜、原稿。




20020416

 原稿がなかなか進まない。ようやく「遊び」の項は書いたが、難儀な「威嚇」と「感情」が残っている。この機会にオックスフォードの動物行動学事典を読み直しているが、少なくとも、遊び、威嚇(おどし)、感情(情動)の項目はあまりに古すぎるし、どうでもいい考察が多すぎる。まあ10数年前のものだからしょうがない。800字に圧縮するときに、どうやって無駄を残すか(削るか、ではない)が思案のしどころ。その分野に何が足りないかを明らかにするのが事典の役割であって、「すっかりわかった」と思わせてはいけない。
 そして遅らせまくっている電子ネットワークにおける相互作用についての原稿も。

 明日の講義の準備にビデオを編集する。iMovieがスムーズに使えるようになってから、映像編集はすごく楽になった。が、その分細かいところに凝ってしまうので結局時間がかかる。結局徹夜。





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