The Beach : Mar. b 2002


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20020331

 午後、剛田さんと待ち合わせて、京都の総合資料館の吉田初三郎展。さすがに京都ご当地ものがたくさんあった。しかし、同じ京都の鳥瞰図がクライアントの数だけあるのには驚く。しかもそれぞれ、各クライアントが中央にでんと構える構図。平野屋のいもぼうは、東京ドーム何杯分いもぼうが入るかと思うくらいでかいし、都ホテルからは日本のあらゆる場所まで二、三歩でたどりつけそうだ。
 自分で設立した会社「観光社」から三九才で自伝を出版、以前から呼ばれていた「大正広重」の名を自らも自称。かなりセルフプロデュース性の強い人だったと思われる。

 ついでに寄った資料室の吉田光邦文庫をあれこれ見出したらとまらなくなり、結局閉館まで。それからさらに剛田さんと古本屋へ。ちょうど玩具ものが入荷したところで、さっき資料館で見て欲しかったあの本この本が。あれこれ買ってしまう。

 永田圭子「絵本観・玩具観の変遷」高文堂出版社は、明治以降に玩具が教育的なものとして扱われていく過程と、絵本の発生とをパラレルに描いておもしろい。




20020330

 朝からテックス・アヴェリー責め。さらにパノラマグッズをあれこれお見せする。自分でも内容を忘れてたりして、ずいぶん頭がすっきりした。しかも分散していた資料がひとまとまりになるので、このままカタマリとして棚に放り込めば収納改革。やはりときどき人にお見せしなければならないと思う。

 表に出るともう桜は満開に近い。彦根では4月15日以降というときも珍しくない。今年は異様に早い。

 それにしても原稿。




20020329

 午後、来客。あちこちに散らばっているステレオグッズを次々とお見せしつつ、持参の春巻を客人に揚げていただくどあつかましさ。カニを抜けて白魚を抜けてカニ、その往復に過ぎていくネギとタケノコとシイタケの森が、とかなんとか唱えつつ、心のベスト展に入る美味。
 で、ステレオ休養後、さらにあれこれお見せするうちに終電も夜半も過ぎる。




20020328

 さらに。




20020327

 原稿。遅々として進まず。「俺たちは天使じゃない」をなぜか見てしまう。




20020326

 フォルティ・タワーズ。夫の名前はBasil、妻の名前はSibil。どちらもBとSとLでできている。このSとBの順番がそのまま二人の関係を表わしている。
 妻が夫の名前を呼ぶときは破裂音のBで始める。Bでバカにし罵倒し侮蔑しバッサリ切り捨てる。
 夫が妻の名前を呼ぶときは摩擦音のSで始める。Sの姑息さでジョン・クリーズは夫の姑息さを表わす。相手の機嫌をとろうとするとき、夫は妻の名前を連呼する。「SibilSibilSibil」。Sの摩擦音でそそくさと接近し粗相をする。

 名は体を表わす。自分の名前ではなく、相手の名前を声にするとき、その音が自分の体に表われる。名前はメディアになる。




20020325

 卒業式に謝恩会。卒論生からは安眠マクラをもらった。

 夜、研究室のBSでちらちらと『風とともに去りぬ』を見てたら結局どっぷり見てしまった。定着に妄執する流れ者としてのアイリッシュ魂。U2のA sort of home comingって、つまり、タラのテーマ、ではなかったか。

 レットがスカーレットを抱えていく階段の照明、タラのオークの木々を背景にした影絵的な撮影、メラニーの撮り方に見られるドライヤー的なもの、など、照明のことをあれこれ考える。
 




20020324

 大阪へ。かっぱ古書のまち「りーち」で絵はがき展。カルピス絵はがきや初期の木版や石版など、珍しい絵はがきのカラーコピーがたくさん出ていて目の保養になる。生田誠氏のコレクションとのこと。絵はがき美術史の可能性を感じる。

 日本葉書協会関西支部設立大会。盆まわしでまわってくる絵はがきを何時間か眺める。基本的にぼくはまだまだコレクター未満だということがよくわかった。高くて手が出ないのも多かったが、芸者写真のカバー付きのものをはじめ、またまたあれこれ目の保養になった。

 偶然、編集者の高橋さんが来ていた。本を書く約束がすっかり延びてしまい、おわびがてらお茶。




20020323

 15日のレクチャーでも話したことなのだが、「す」という音が最近どうも気になる。

 「透かし絵はがき」の話をしようと、透かしについて考え始めたのがきっかけだった。
 透くとはどういうことか、と、すくすくと唱えていると妙なことに気づく。透く、漉く、鋤く、梳く、空く。これら「すく」と発音されることばには共通点がある。
 透く、というとき、ひとは透過されるものと透過されないものを同時に発見する。たとえば服が透ける、というときは、服という「透ける面」と、光という透過するものごと、そして、肌という「透けない面」を同時に発見する。このような、透過される面、透過していくものごと、そしてその同時に明らかになる透過されない面にかかわる問題を、ここでは「透過性」と呼んでおこう。

 漉く、はどうか。紙を漉くときは簀の子を紙液に浸してすくいあげる。簀の子に薄い紙の繊維の層が残る。これを何度も繰り返すと紙になる。簀の子という透過する面を紙液が通過していく。そして、紙という透過しない面が残る。
 鋤く、では、鋤(すき)の面に土が当たり、面の側面から後方へとこぼれていく。この結果、地面は浅く掘り返される。鍬(くわ)の場合は鍬の面に当たった土をそのまますくって前方に掘り出す。だから牛や馬がひくのは鋤で、深く穴をあけて掘り出すのは鍬。つまり、鍬と鋤の対比は土の透過性の有無の対比だということになる。
 梳く、では、いうまでもなく櫛の歯の面を髪が透過していく。
 空く、はどうか。空いている、というのと、空っぽというのとは少し違う。電車に誰ひとりいないときは「空いている」とはいわない。少しだけ人がいるときに「空いている」という。つまり、空いている、は、まったくのがらんどうではない。ちらほらと人やものごとがあって、その間があいているというときに使う。このとき、視線は人やものにさえぎられながら、その間隙を見ている。つまり、単なる空洞ではなくスキマが発見されるのが「空いている」なのだ。と、書いて気づいたが、隙間の「隙」も、「隙く」と読む。

 どうしてこれほどまでに「すく」という音は透過性にかかわっているのだろうか。おそらくその秘密は「す」の音にある。
 「す」のつく擬音や擬態語をおもいつくままあげてみよう。すっ、すーっ、すぱっ、すすっ、するっと関西、すーいすーいすーだららった。幽霊が扉を通過したり、刃が柔かいものを通過したり、空気が口の中を通過したり、切符が自動改札を通過したり、植木等が世界を通過していくことがわかる。

 Sの音が、透過性をあらわしているのは、おそらく偶然ではない。歯と舌によって狭められた出口を空気が通り過ぎ、Sの音が出る。そのとき、洩れ出た音と、取り残され震動する口腔とが、同時に感じられる。Sは、通過を体感させるからこそ、透過性を表わすことばを導く。

 こう考えていくと、「スはスペースのス」、というブラッドベリのSFタイトルは、あまりにも含蓄が深いと言える。「S」は、通過することで、空間 space の正体を明らかにするのだ。




20020322

 音声分析をしながら気づいたこと。

 こそあどの「そ」がS音で始まるのは偶然ではないのではないだろうか。

 「そうですね」「そうかな」「そうすると」「そこなんですよ」「それはちょっと」「それがねえ」
 こそあどの「そ」を発音するとき、話者は相手の考えに対する肯定と留保と否定の間で揺れている。このとき、話者はしばしば「そ」のS音の始まりを「SSSSSS」と、伸ばす。このS音はいくらでも伸ばすことができる。長嶋がよく「SSSSSSそおおおですねえええ」と言いよどむ、あのSだ。

 まだことばにならない音、しかしターンを主張する音としてS音は機能する。

 こそあどの「こ」では「KKKKKK」と始まりを伸ばすことはできない。こそあどの「あ」は母音であるために「AAAAAAA」では声が強すぎ、相手の声を覆いつくしてしまう。
 「そ」だけが「SSSSSSSSSS」の技法によって、相手の声に重なることができる。音圧は低いが鋭い音色によってことばならぬことばとして会話の中に忍び込むことができる。

 Sの音を考えながら、いち、にっ、さん、しと声に出して数えてみて、じつは「さん」や「し」は、拍の頭に発せられるのではないのに気づいた。

 いち、にっ、さん、しと唱えてみよう。「さん」「しい」というとき、知らず知らずのうちにSやSHの音が拍の頭より先行して「SSSSSSさん」といってることに気づく。試しに自分でごく普通の調子で「いち、にっ、さん、し」と録音してから波形分析してみたら、明らかにS音が半拍近く先行していた。





 つまり、SやSH音によってによってビートを予告することができるのだ。
 「いち」と「に」によって基本のビートができ、「さん」「しい」の摩擦音によってそのビートは予告され、揺らされる。

 音声解析をやっていれば、こうした摩擦音の性質が気づかれないはずはないのだが、音韻論の「モーラ」(拍)の概念には、どういうわけかS音に見られるような摩擦音による拍からの逸脱が盛り込まれていない。


 摩擦音は、音を引き延ばすことで語調を強めたりことばを引き延ばしたり続く音を飲み込んだりすることができる。こうした性質を利用したことばが特定のジャンルを形成することがありうるだろう。なぜfuckとshitは摩擦音で始まるのか。




20020321

 今日あたり、水窪のデータ整理が出来上がるつもりで、まずは珍しく早起きをして小川珈琲でモーニングなど食し、そうだこんなにすがすがしく早起きしたのであるからゆったりと工作などしてから仕事にかかろうと思い、アヤハディオで90cmの板を三つに切ってもらい、切ったものを組むとなると腹がすくはずだからドラッグユタカで菓子を買い、イヌフグリもホトノケノザもキュウリグサも咲いている、研究室の棚の中には棚を作る、電動ドリルで穴をあけ、先端をドライバに取り替えてネジをしめ、また穴をあけ、ネジをしめ、作ったらとりあえず眺めたくなり珈琲をいれて飲むうちに、とりあえずその子持ち棚に電話を入れてみたところ電話がかけたくなり、何件か電話をすると受話器をとるとき棚につかえるのに気づいてコードを抜いてほぐし、このようにコードがくしゃくしゃになるのは、きっと電話をかけながらコードをくるくる指に巻いているからなのだが、自分ではそれを意識したことがない、意識したことはないが想像してみると、ちょうど、60年代ファッションに身を包んで独身を謳歌している女性が「よくってよ」と言いながら指をくるくるしている場面だったので、すると学生からはおそらく自分は「よくってよ」とあだ名されているに違いない、これから廊下を歩くときは「よくってよ」という無声音が聞こえてこないか注意しなければならない、とパソコンのバッテリーを見るとあとわずかしか残っておらず、それは以前から接触不良だった電源コードがいよいよ不良どころか接触なしになったからに違いないので、コンセントを抜き、電力不足でこころもとなくなった省力モード画面をちらちら見ながらビニルがあやしくふくらんでいるあたりを切り落とし、カッターで線を出していくと、確かにそのふくらんだ部分が断線寸前だったのですっぱりと取り除き、ハンダもビニルコードもないので、切り落としたあとの二つの線を、ただ指でこよりのようにプラスとマイナスをよじり合わせるだけにして、上からガムテープでぐるぐるのぐるに巻き、コンセントを入れたところ幸い火花は出ないのでおごそかにパソコンに接続すると、充電状態を示すイナズママークがともったので、そうっとさわらないようにし、それにしても暗くて暖かい曇り空なので、日本相撲協会カレンダー3月4月の花見に力士の写真を窓際に移し、窓の外の殺風景な空地に力士が並んでいるところを想像しながらふと時計を見ると意外にも5時で、春分の日のくせに明るすぎるが5時ならあと1時間で夕飯の時間なので、この前の教員会議の表紙をちぎって、棚に穴をあけたときの木屑やらコードを切り出したビニル屑を机のはじに集めて捨て、昨日作ったムービーファイルを思いつくまま眺めて、自転車に乗り家に帰って食事、それから自転車で是非と言われていたナチョスのライブに行ってビール二杯を飲み、帰りに天宸堂で高野文子の「黄色い本」を買い、高野文子だからちょっとずつ読まなければいけないので、まずは気を落ち着け酔いをさますべく、まだ行ったことのなかった近所の屋台に入ると客は自分一人で、とんこつラーメンを注文すると、テレビでは全国おいしいラーメンベスト50をやっていて、ベスト45や44や43を見るうちにとんこつラーメンが出てきたので、ベストもワーストも考えずにずるずるとすすり始めると、テレビを見ていた店の主人が「わあ、カニを入れるんですって」と言うので「夏はたいへんだろうね」とあいづちをうちながら、しかしそのカニラーメンとこのラーメンは関係ないのでさらにメンマをかじりチャーシューをかじり汁をすすり、小銭入れから600円を出す、金額にはベストもワーストもない、夕食から間をおかずに食ったから少し腹がもたれているが、金額には胃もたれも胸やけもない、家にもどって台所のテーブルの上で高野文子のビニルカバーを開けて一ページめをあけたら、結局最後まで読みふけってしまい、そのうち相方が風呂からあがってきたので、今日届いたフォルティ・タワーズのDVDを見てしまい、これではまるで知らぬ間に縁を逃していた里山まり子、一枚の絵をかけることもできなかったジョン・クリーズのような一日なので、そんな一日をコニー・ブースのようにスケッチしなければならない、すぐ自分だとわかるようにネクタイを描かなければならない。




20020320

 トラベルチャンスならぬトラブルチャンス、というのがあるなと思う。

 昨日からずっと水窪でのインタヴューのビデオを見なおしている。これは高木さんの語りをかきおこすのが目的なのだが、おこしているうちに自分の聞き方の出来不出来にも目が行くようになる。

 うまく聞くということと、いい話が引き出せるというのは微妙に違う。巧妙にあいづちを打っているところは、巧妙すぎて、こちらの思い通りのことや知っていることの再確認になる。むしろ見ていておもしろいのは、こちらがとんちんかんな受け答えをしたり、うわすべりなあいづちを打ったり、口ごもって一瞬気まずい沈黙が流れるときだ。そういうとき、高木さんが考えながらちょっと違う例を出したりこれまで聞いたことのない話を始める。
 新しい流れができるときには、会話が少しトラブっている。つまりトラブルチャンス。

 和気あいあいと話を共有するのではなく、気まずさと気まずさの解消を共有すること。こちらに話を合わせてもらうのではなく、こちらとの話の合わなさを発生させ、そこを起点にこちらから寄り添っていくこと。距離がなければ近づくことはできない。

 夜中にMPEGプレーヤーでマタイ受難曲をかけながら、暗い校内を歩く。階段から廊下へ、廊下からドアへ、行為の節目が明確に意識される。ダウジングの棒のようなものか。




20020319

 コミュニケーションを原稿用紙4枚で語れるか。語れるわけがない。わけがないが、事典ではやらねばならない。
 それにしても、事典で「コミュニケーション」を引こうと思う学者や院生っているんだろうか。自分を振り返ってみると、いわゆる小項目じたての事典で基礎的な項目を引くことはほとんどない。基礎的な項目はPsychological Reviewなどのレヴューものを読むか、単行本を読む。

 じゃ、誰が、「コミュニケーション」について、たかだか1600字で読みたがってるか。と、考えてハタと気づいた。学生だ。よく、レポートを読むと、事典を引いたのがまるわかりのやつにあたる。ああいう学生だな。「コミュニケーション」を早わかりしたがってるのは。

 ようしわかった。つまり、レポートで苦しんでる学生に読んでもらって、「やっぱりコミュニケーションを早わかりするのは甘かった」と思っていただくように書けばいいのだな。




20020318

 「浅草十二階計画」に十二階ペーパークラフト。レクチャーで配ったもののPDFファイルがダウンロードできます。
 よもやこんなややこしいものを作る人はいるまい、と思ったら、早くも小林美香さんの力作登場。ぼくのよりずっときれいです。
 さあ、あなたもケント紙にカラー印刷して挑戦だ。日曜がたっぷりつぶせます。

 マタイ受難曲を聞きながら、ふと、コラールが、ポール・サイモンの「アメリカの歌」にそっくりだということに気づく。あの歌がアメリカで好まれるのは、クリスチャンの受難のメロディに国家を俯瞰する詩が乗っているからなんだな。
 で、メイフラワー号に乗ってきた者たちはその後、「いっしょにいこや、そこの黒いの」といって「セイル・アウェイ」(ランディ・ニューマン)し、星条旗の下、華々しく展開する未来を見て「なんてスバラシイ世界!」と歌う(「IGY」ドナルド・フェイゲン)。
 世界を皮肉るにつけ、悲観するにつけ、回帰するにつけ、必ずアメリカは自らを流れ者の系譜として位置づける(そして先住民をアンカーとして位置づける)。流れてきた人がメジャーで、ずっと居る人がマイナー。日本人の感覚はおそらく逆だろう。


 絵はがきを集めていると、どうしても印刷術のことが気になってしまう。
 たとえば、コロタイプと網点では、キメの美しさに大きな差がある。手彩色のコロタイプには吸い込まれるようなグラデーションがあって、これが臨場感を醸し出すが、網点印刷にはこの魅力はない。
 絵はがきをスキャンすると、コロタイプと網点印刷の分解能の差はさらにはっきりする。コロタイプだと、ディティールをかなりの大きさまで拡大できるが、網点だとすぐに分解能が限界に近づいてしまう。

 というわけで、ここのところ、絵はがきに関連して、印刷術に関して勉強しなおしている。まずは松田哲夫『印刷に恋して』(晶文社)。これはいい。印刷の本はえてしてプロフェッショナルのために書かれすぎていて、基本的な謎がとけないのだけれど、この本は「そうそう、そこがじつはわかんなかったのよー」な疑問をじつにうまく捉えている。個人的にはコロタイプ印刷の話が載っていたのが収穫だった。内澤旬子のイラストは痒いところまで謎を明かす力作。
 さくっと読む読み物として大日本印刷株式会社編『印刷のおはなし』改訂版(日本規格協会)で最近の流れがわかる。ちょっと木版に冷淡。『世界版画史』(美術出版社)でバランスをとりたいところ。


 あてずっぽうで買ったら、じつはマックス・プランクの言語・ジェスチャー研究の紹介本で大当たりだった井上京子「右や左がなかったら」(大修館書店)。この前読んだモパン族の空間表象の話とあわせておもしろい。




20020317

 朝、彦根を出て水窪へ。米原から豊橋まで新幹線、そこから飯田線の鈍行、さらに水窪駅からバス、ざっと5時間の道のり。別当の高木さんにあれこれ話を伺う。聞き逃しリストが20項目くらいあったが、それはみるみる解決し、さらに奥深い話に。そば団子に味噌をつけたものとマーマレードをつけたものをいただく。これが滅法うまい。そばにマーマレード、まるで、バタースカッチの雲にタンジェリンじゃないか。

 谷あいの村。4時を過ぎるともう山に日が隠れる。汗ばむような昼下がりから、あっという間に肌寒い夕暮れに。高木さんに送っていただき、水窪からまた彦根へ。きっかり12時間で家に戻ってきた。とても奇妙な感じ。短い時間にどこかとんでもなく遠いところに行ってきたような。

 ものすごくひさしぶりにアフタヌーンを買って電車の中で読む。彦根に来てからろくにマンガを読んでないので浦島状態。絵物語になってる北道正幸の「ぽちょむきん」ええなー。というわけで彦根の本屋で1−3巻を買う。あれ、絵物語は今月号だけだったのか。しかし、それはそれとして、妙な味のあるマンガ。あえてたとえるとすればトニーたけざきmeets黒田硫黄か? (と最初思ったが、読み進めると黒田硫黄というよりゆうきまさみかも) ネコ好きの人には「ああっ教祖さまっ




20020316

 実家でもうええっちゅうくらい寝る。原稿の続きなど。





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