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20000806


Roma




 さて、案内者のいないローマだ。しかし日曜観光なのだから「地球の歩き方ヨーロッパ」に書かれた露骨な観光地を巡り、露骨な観光映像を撮ることにする。

 まずは朝もはよからメトロでサン・ピエトロ大聖堂へ。やたらでかい。嫌みなほど大きいので大きさが分からない。ねじくれたドームの曲線に辟易としながらあちこちの柱を眺めるうちに、大理石に擬態したBOSEのスピーカーに気づく。祭壇の正面には、ただでさえ黄金なのに光の線を図太く象った司教座があり、気の遠くなるような数の人間の労力と時間を使ったこの建物、この巨大な司教座にゆったりと座れる人物の神経はもはや人間のものではないと思う。
 中央のドームの脇には真顔のジョン・クリーズに似た男が立っていて「ミッサ?」と静かに、半ば諭すように尋ねる。反射的に、はい、とうなずき、中に入れていただく。入れていただいた以上は十字も切るし隣人と完璧な笑顔で握手をする。
 BOSEのスピーカーからささやきまで伝わるほどのクリア音像で、聖なる歌が歌われる。静かさの拡声。唱和よりも大きな一人の声。ドームの響きに委ねることなく、確実に伝えられる聖なることば。
 黙祷のとき、ずっと後ろで子供の泣く声がして、たしなめられたのかすぐに止んだ。ドームの形を現わすように響きが残った。

 ミサが終わってドームの中を歩いていると、さっきと感覚が違う。ミサのご利益か。いや、ミサの前より自分の歩速がゆるんでいるのに気づき、ようやく、この建物では歩く速さが問題なのだと分かる。特定の方向に眼をやり、ごくゆっくりと足を踏み出す。すると、幾重ものドームの曲面が思いがけないほど大きく変化する。さっきまでは速く歩き過ぎていたので、かえって何が起こっているのか分からなかったのだ。

 外に出て、大柱廊を、広場を、やはりゆっくり歩いてみる。やはりわずかな歩みですさまじい遮蔽の変化が起こっている。対面の回廊は、手前の事物よりはむしろ空の動きに沿うように動き、そのことで空の領域、神の領域に属そうとする。記念撮影をしようと身構える人がいて、普段と同じように距離を取ってカメラを構えてから、どんどん後ろに下がっている。彼にも、この聖堂の大きさを収める距離が、直感的に分からないのだ。







 お次はコロッセオへ。入場口には気圧されるほど長い行列ができていたが、30分すると入ることができた。
 さっきのサン・ピエトロもそうだったけど、とにかく異様に大きいことだけが感じられ、どれくらい大きいのかがよく実感できない。
 ここでもゆっくり歩くことを心がける。視野のあらゆる場所からざわざわと遮蔽の変化が感じられる。かつて彫像が置かれていたであろう3層のアーケードは、いまはぽっかりと矩形の穴を開けている。その矩形の風景が、ごっそりと移り変わる。
 歩くうちに風景は少しずつ変化するので、それは、向こうの風景が垣間見えているに過ぎないと知れる。しかし立ち止まるとどうか。風景はアーケードに捕まえられ、奥行きを失い、微細な輝きを帯びる。青い空がみるみるうちに青いガラス窓と化し、光で充填されていく。
 ヒトが両眼視によって感じうる最遠平面は数百メートルだと言われている。だから、両眼視だけで距離を推し量れば、このコロッセオの詐術は見破れるはずだ。
 しかし、同時に、単眼視の手がかり、たとえば矩形枠のありうべき大きさといった手がかりを、脳の視覚野は取り込んでいるはずだ。そして、コロッセオはヒトを巨大な楕円で囲いこみ、視野からありうべき世界を隠し、ありえない矩形枠だけを示すことで、単眼視をまどわしている。
 その結果、脳は単眼視の結論を優先し、風景の遠さを矩形の遠さに委ねる。いっぽう、両眼視の結論は全く無視されるわけではなく、左右の目が見る明るさの微細な差は光沢となり、矩形をきらめかせる。
 かくして、まなざしは巨大なコロッセオを横切ろうとして、そのあまりの長さにうろたえ、アーケードまでの距離を彼方への距離と見誤ってしまうのだ。そしてコロッセオの壁はまんまと彼方の景色を捕まえ、自らは巨大な額縁となり、そこにささやかな矩形の風景をガラス片のようにきらめかせる。






 そして、外に出ると今度は凱旋門だ。遠いアーチがここでも遠近法的構図をキャプチャーして、額縁になっている。おもちゃのようにも見える。ただし視野を占める割合はおもちゃのようにかわいくはない。
 ローマは遺跡となることによって巨大な額縁となった。額縁はその巨大さによって、世界を捕捉し輝かせている。






 パラティーノの丘を過ぎ、フォロ・ロマーノの丘へ。もうこのあたりになると思考は麻痺している。ドミティアヌス帝の馬場を見ながら、でけえ、とか、バカじゃないの、とか言うことばしか出てこない。

 そして丘を下り、サトゥルヌスの神殿跡を前にすると、過去のローマの栄光に思い至るより早く、柱が真か空が嘘か、特大サイズの選択を眼が迫られ、これは冗談で作られたルビンの壷ではないかと思う。





 ああ、もう分かった分かった、分かってないけどごめんなさい、何でもノだのオだのつけりゃ偉いと思ったら大間違いだぜデケーノカイーノ、と末期的な語呂を頭に浮かべつつ、何を誰に謝り怒ってるのかもわからぬままカンピドリオの丘、ああ、またなんとかオかよ、とにかく丘だから上る。足はアップダウンでへとへとになっている。それでもなお、「トラステヴェレはローマのカルチェラタンなんだって」とゆうこさんは強硬に主張するのだが、トラステヴェレもカルチェラタンも行ったことがないから、幻を幻で支えるような話で、しかしローマにあることは確かなので、せっかく上った丘を下り、車の行き交う大通りを渡り、テヴェレ川を渡り、さあどこがトラステヴェレだ。ジェラテリアに入る。ここがトラスか。何がジェラテリアだ、どうせイタリア人はジュラ紀とジェラートの区別もつかないのだろう。アイスティーを頼むと、これが死ぬほど甘い。甘いものがうまい、ここは夏なのだ。

 いったんバスで宿に戻って横になり、少し回復してからまた夕食を食べにトラスなテヴェレへ。ついでにさっき川を渡りがけに中州にあったスクリーンのあるところへ行こうという魂胆。うまいパスタとエビを食い終わり、中州へ移動。チケットを買う。今夜の演目はヴェンダースの500 Million Hotelにイタリア短編映画ですと。川べりには出店が並び、「ヴィム・ヴェンダース、どこか?」と尋ねると、川の下手を指差される。行ってみると椅子席はいっぱいで、もう立って何時間もいるのはイヤだからさっき暇そうにしていたインターネットショップから椅子を二脚借りてきて座る。短編映画が何本か続く。車椅子に乗った物乞いのオペラ妄想だとか花束を持った二人の男の見栄合戦だとかロトで大当たりを夢見る男だとか、いかにも大仰でフィッツカラルドでアモーレ見よな内容で、それはそれで面白いのだが、いっこうにヴェンダースは始まらないし、ホテルは門限が12時なので、結局あきらめて出る。
 中州の反対側に出ると別の映画の声がする。建物の反対側にはもうひとつのスクリーンがある。なんだ、こっちじゃないか。まったくイタリア人ってやつは道もろくに教えやがらない。幕に映った裏返しのメル・ギブソンがイタリア語をしゃべっている。吹き替えだったのか。

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Beach diary