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20000430
勉強し末世ひっこしの境。iMovieで、かえるさんレイクサイドの画像を使って、ヨ・ラ・テンゴの「Shadow」のMTV作ったらめちゃ泣ける結果になった。たかがクロスフェードとフェードイン、フェードアウトでつないだ静止画像なのに。わし、なんでこんなもん作っちゃったんだろうか。モロ、テクノロジーに踊らされて泣いてるって感じ。でもほんと悲しいのよ。まるで初めてウォークマン付けて歩く街並みの黄昏。んで、また見てしまう。じわー。自分が作った曲じゃないから非公開。

ゼルダの伝説「ムジュラの仮面」。まあ、前作にハマった者としては一応。時の歌なんてすっかり忘れてたので、思い出し加減が絶妙によかった、個人的には。いま沼地。
しかし、なんか、昔のキャラが出てくると、懐かしいっていうより悲しい。マラソンおじさんが郵便屋さんになってるとか、ニワトリとかイヌとか。それにしても、かえるさんの悲しみが強すぎて、いまひとつのめりこめない。
まあ第一印象がいまいちなのはよくあることなので気長にやることにする。ネタバレありのムジュラ日記はこちらで。
20000429
この前からずっとCDプレーヤーに入ってるピチカートの今年出たやつ。こんなにピチカート聞いてるのは「女性上位時代」「ボサノバ2001」以来。また恋に落ちた、のかな。今日は「戦争は終わった」のカラリとした不機嫌ぶりを繰り返し。

iMovie 1.02が無償配布になったので落として使ってみる。ぼくのマシンではsmiがdisk copyで解凍できないことが多いが、そういう人って他にいないんでしょうか。しかたなくResEditでクリエイター書き換えてむりやり解凍。

ビデオをつないで適当に口三味線でアフレコしたら、あっという間にプライベートムービーになった。お手軽で好ましい。パソコン画面で見てるといい感じに粗くなるのだが、DVに出すとテラテラしてて、スタジオ撮りの水戸黄門のような違和感。

夜、九重祐美子の「コメットさん」。モデルアニメーションとしての魅力を再確認。とくに「おもちゃの反乱」の回。あと、白黒時代の喚起力。しかし、コメットさん、最後に大輪の菊をおいていくなんて趣味悪すぎ。

じつは毎晩のように見ていたポケモンビデオ、ついに「オレンジ諸島編」最終回までたどりつく。
20000428
朝まで原稿。ちょっと寝てまた原稿。すべりこみで上がった。

夜、ビデオで「ジム・ヘンソンの世界」。ジム・ヘンソンはもちろん、カエルのカーミットの生みの親で、セサミ・ストリートの最重要人物。手慣れた人形つかいぶりのすきまにヒッピーの風。カーミットとレイ・チャールズのデュエット、泣けるなあ。ジム・ヘンソンはカーミットの下にいて、おそらくモニタを見ながらカーミットを動かしている。レイ・チャールズにはカーミットの姿は見えない。歌の最後に、レイ・チャールズがカーミットを抱く。カーミットの手ざわりで、レイ・チャールズにはカーミットがいることがわかる。カーミットはカエル。カーミットはジム・ヘンソンの腕。抱かれたジム・ヘンソンの腕。ジムの手が握られ、カーミットの口が恥じらう。

20年代のフェリックス。白黒でシンプルな描画。ナイフで切れそうな海。積み木のような船。抽象的でどんな風にも変換できる。夢に似ている。
20000427
演習に講義に原稿。
演習でエクセルのセルと関数の使い方。数年前に開設した学部情報室のマシンは、もはやエクセル上でカット&ペーストしただけでばたばた倒れる。やれやれ。
統計学基礎の講義で60個のデータの標準偏差を計算させて受講者をイジメる。だって、初めからエクセルでちょちょいとやってみせたらありがたみないじゃん。
モスで原稿。
20000426
講義演習ゼミ。まっとうに仕事。
院生向けにMITのEncyclopedia of Cognitive Scienceを講読。英語がわかりにくいと感じるのは必ずしも悪いことではない。しかしそこから、日本語と英語の時間感覚の差の問題をきっちり感じる能力は、大学院生には必要だ。
20000425
ゼミで性格心理学のレヴュー。とても重いハンドブック「性格心理学ハンドブック」を片手に類型論・特性論・力動論・相互作用説などなど。
20000424
 講義講義。今年は早めのフィードバックを目標とする。アンケートを取ったらその場で公表する。

 金曜日の朝日夕刊に大阪弁ロボットに対する談話。インタヴューで言ったこととかなりずれていて愕然。ここで訂正しておく。

 記事:「会話ができるコンピューターの開発は最近急速に進み、入力された知識はどんどん豊富になっているが、受け答えが「機械的」で使おうという気が起きない。「むー」は、これまで見落としていた発想に立ち、コンピューターを人間に近づける試みの一つだ」

 NIFTYの「会話くん」は使う気がしない、といった覚えはあるが、会話ができるコンピューター一般に対して使う気がしない、とは言わなかったし、その理由が「機械的だから」といった覚えもない。どうもあちこちの発言のフレーズをつぎはぎしてこんな妙な意見になったのではないか。以下、訂正をここに掲載しておく。

 「たとえ機械的な応答であっても、応答が適当な時間構造さえ持てば、人間はその応答に勝手に意味を見いだしてしまうことがある。そして、そうした人間の特性をうまく利用しているのが、人工無脳であり「シーマン」であり「どこでもいっしょ」であり「むー」であるといえる。」

 教訓。インタヴューが一言コメントもしくは一言シーンとしてまとめられた場合、文脈は剥がれ落ち、意図は歪む。インタヴューを受けるときは、それがどの程度の長さでどのように掲載されるのか聞いておくこと。できれば、相手の要求する文字数を聞いて、こちらでその文字数に合うようにコメントを書き、そのまま掲載してもらうこと。
 最も有効な方法。自分のことばの出力形態がわからない記事に関しては断ること。さ、次いこ、次。
20000423
 昨日の「新しい時代」のこと。

 ネットワークに潜在する神と関り、現実界の生とネットワーク上での生を交換するという物語ならば、例えば「lain」でも「マトリックス」でも見られたものだ。いっけんするとこれらの物語と同じ凡庸とも言えるプロットを、坂井れいしうが旋律のない語りによって延々と物語る。その、あまりの長さ。語りは、はっきりと冗長であることによって、まじないの性質を帯びはじめる。遺伝子、ネットワーク、デジタル、90年代に使い古されたことば。この、口当たりのいい単語群を、使い古されているかどうかなどと、思いわずらうことなく語る少年。珍しい機械を手に入れた少年のように、声はことばを次々と音に乗せていく。

 長い語り。4つのキーボードが奏でるサイン波による旋律の、執拗な繰り返し。めまいのするような長さ。いや、「長さ」で語るには長すぎる。この繰り返しを収める「長さ」などどこにも存在しない。この繰り返しは、空間のことばでは語ることができない。冗長であるということは、空間に還元できないということ。音に空間を明け渡さないための技術。

 その繰り返しを聞きながら、三輪眞弘のCD「東の唄」の「解説」のことを思い出した。このCDの最後のトラックには、「解説」がドキュメントトーカーの機械的な音声で入っている。しかし、読まれる内容は、「ワタシハ、ロボット。オテツダイ、シマスカ」などといった、短い文で構成されたロボット言葉ではない。人工音声にはおよそにつかわしくない、修飾句の多い、一文の長い解説文だ。自然な抑揚を剥奪されたその解説を聞いているうちに、修飾句の意味は次第に剥がれ落ち、ことばは、次のことばに時間を預けるためだけに唱えられる呪文のように響き始めているのに気づく。ことばは、意味によって記憶空間にしかるべき位置を占めるのではなく、次々と繰り出されては記憶空間を逃れていく。

 巨大なビデオ映像。4人のキーボード奏者の譜面を表示するシステム。肉体を安置するフィールド。舞台の下手・中央・上手に周到に配置された場所。しかし、この空間構成は、かえって旋律をそこから切り離す。歌い手や奏者の肉体に空間のアリバイを与えながら、旋律をそこから逃そうとする。
 その最たる技術がビデオディレイだろう。綱渡りのように単旋律を歌い継いでいく坂井れいしうの口元が歌のことばとずらされる。歌は肉体にまとわりついては離れ、空間と戯れる。歌が肉体からずらされるわずかな瞬間、映像にディゾルブがかかり、空間は溶け、歌の時間が支配する。この世の「スペース」の向こうに危うく顔をのぞかせる時間。映像は歌と戯れ続ける。

 ネットワークから旋律へ。これはいわゆる「サイバースペース」の物語ではない。これは「スペース」の瓦解に関る物語だ。かつて三輪眞弘が「HUB」に関心を寄せていたことを思い出す。ネットワークが、サーバーによって、容量によって、URLによって、空間的に語られていた頃、彼は、ただ情報の通り道に過ぎない「HUB」のことを語っていた。当時はとりとめのないアイディアに思えたこの「HUB」の話も、いまははっきりと、このオペラに通底するイメージとして感じられる。
 URLを打ち込み、情報を表示させるスペース。情報のありかに名前をつけ、名前を呼び、情報を顕現させるスペース。それに対して、「新しい時代」は、名前を呼ぶこと、歌うことについて語る。語ることで、名前になり、歌になる。そのような歌として「新しい時代」を繰り返し想起しよう。この記憶が、記憶という空間から解き放たれて歌になるときまで。



20000422
 昼前に起きる。京大そばのアイヌ語の書いてある店でタイのアカ族、ラフ族の竹製口琴。ラフ族のは筒に高低二つの口琴が入っていたが、はじく部分がとんがっていて、ちょっと鳴らしにくい。アカ族のはわりと鳴り良し。このすごい色のヒモはどこから来たんだろう。
 この口琴、NGO関連の商品らしい。それにしても、このNGO商品一覧の寒々しさ。ここには、自分の作ったものを売ろうとする売り手の欲望もずるさもなく、その一品を選択する買い手の欲望もずるさもない。
 少数民族が自分の作ったものを「工芸品」として民族の外に売る、ということは、観光という事態と関わることだ。少数民族であれば、その収入をめぐる国家への帰属という問題も持ち上がるだろう。それは生活の変化に起因し、さらなる生活の変化をもたらす。
 その生活の変化の中でなお生じる、口琴鳴らす誇り、口琴鳴らしてるけど暇だ、口琴鳴らしてるけどモテない、口琴鳴らして夏が来た、雨季だけど口琴、などなどは、この商品一覧のどこにあるか。

 古本屋めぐりでみるみる金が飛ぶ。戦前の理科教育本、「神戸新開地物語」、大正期の「理想の住宅」の本など。薮田くんに教わった店で幻燈の種板(手描き!)。

 寺町二条であいかわらずうまいスパゲティを食ってから、歩いていたら、向こうからこさみちゃんが。これから結婚して東京に引っ越すところらしい。バイク引っ越し。おめでとうございます。前々から気になっていた錫屋の前で合子(ごうす)を買う。

 アルティ・ホールで三輪眞弘「新しい時代」。今日はとりあえず、たいへんな「問題作」だ、とだけ書いておこう。4/27紀尾井ホールは必見。
20000421
 夕方から京都で日高さんの「南方熊楠賞」受賞祝い。久しぶりに昔の面子が顔を揃え、京都組の心づくしの準備でいいパーティーだった。
 飲み会で「おもらしすることはなぜ恥ずかしいのか」という話。意識しないうちにもらしてしまったことが原因でセックスができなくなったり、人前に出るのが苦痛になったりする、という症例があるらしい。おもらししたときの相手の態度ってのが原因の一つ?
 ところでおもらしは恥ずかしいことか。いいよねえ、もれても。おもらしは、意識的ではない分、ステージが高いかもしれん。
 もちろん、みんなどんどんもらしましょう、てな簡単な話ではない。が、それを単にいけないこととして扱うのではなく、もらすと困るがもれることはある、ということを共有し、「あ、もれちゃった」とか「あ、いまの波はかわした」とか「だだもれ系POP」とか「もれグッズ」等々について、いろいろお話できる相手の存在というのを考えてもいいんじゃないかと思う。経血と同じで、もれは処理の対象にはなりえても、管理の対象ではない。
 後でカラオケに行ってMDつないで踊りまくり、研究室のソファに沈没。
20000420
自分で考えるより相手の身体を手がかりに動く方が簡単。という表情論のコピーを考える。

佐々木くんが「花見の必要要件ってなんでしょうね?」つまり、どういう状態にあるとき、その人は花見をしているといえるか。花の下にいる人の顔の向きは必ずしも桜のほうを向いていないし、となると、どういう状態にあればその人は「花見」をしていると言えるのか、というのをフィールドノートにつけるのは難しい、とのこと。うーん、花の下で休んでたら、それは本人の意図に関らず花見である、ってのはどうか。桜の下で昼寝してても花見。桜の下でくたばっていても花見。死んで花実は咲かないが、花見にはなる。


20000419
夕方神戸へ。JRでそばの女子大生の立ち話。

「別れたん?」
「うん、なんで?」
「もう、あんたの話そんなんばっかりやん。ほんで荷物とかどないすんの?」
「うん、でもともだちでは居れることになってんやんか、そやから少しずつ」
「ああ、よかったやん」
「そやけどな、めっちゃきついこと言うてん、もうなんぼでもきついこというてんで。この人おこらへんかな、思て。好きやないねん、なんぼ好きなとこ探してももうひとっつも好きなとこあれへんねん、ていうてん。そんなん言われて、この人おこらへんかなあ、思て。そしたら、ようおまえそんなきついことおれにいうなあ、て言われてんけど」
「なにいうてんねんなあ、もうなんべんも言われてるのに」

ポートライナーの広告


鰹には「まぶた」がありません。だから目を閉じることはありません。
死んでも私たちを見つづけています。
ヤマヒデも「おいしい味」を見つづけてまいります。
(ヤマヒデ食品株式会社広告・ポートライナーにて)



ジーベックホールで「ホムスは歌う」。アリビナとオリガの優雅な夏の歌。アリビナ・ジェグチャリョーヴァの口を閉じて喉を開閉する音。口が動かないので、その音が彼女から出ているのか、彼女のそばにいる何かから出ているのか判別がつかない。口を動かさないことで彼女はメディアとなり彼女の身体に彼女ではないなにかが発生する。そのなにかとは、かっこうかもしれないし馬かもしれないし神様かもしれないし、夏かもしれない。夏至祭り。
アレクセイエフの9層のイメージ。倍音に分かち、神々のありかを明らかにする論理。
シシーギンの静かな口琴。テクニックもさることながら、長い持続音の中で起こる変化に分け入っていく態度にしびれる。これには、口琴に対する考え方が変わってしまった。弁をはじく、その一つ一つのストロークに耳をすます態度が、人差し指を往復させる手の動きのなめらかさになって表われる。

帰りの車の中で口琴を鳴らし始めたら止まらなくなり、帰ってからも2時間くらい鳴らしてた。
20000418
まっとうに働く。
自転車の鍵が見つかりそうにないのでかなづちで壊す。真っ暗な田んぼのまん中のキャンパスで一人かなづちを振るう男。暗闇で金属で金属を思い切りなぐると怪しすぎる心持ち。
20000417
逆リンクをたどってフラッシュのサイトをいくつか。ぼくはもうフラッシュに手を出すだけの時間とセンスがないのであきらめているのだけれど、デザインの時代は明らかに変わったなあと思わせるこのサイト

京都で菅原さんの発表。「三角関係と感情生活」という魅力的なタイトル、中身は壮大な民族感情誌。全部聞いてへとへと。グイ語の舌で打つ音。最終で彦根着。電車の中で酔いと眠気と戦いながらやった翻訳はあとで見直すと使い物にならなかった。
20000416
ショーン、リッチー、ゆうこさんと湖畔にでるが、とんでもない風で退散。彦根城の桜を見に行く。花は満開で空も晴れてるんだが、やたら寒い。鼻水が出てきた。ショーンが広げたジャンパーの上にスーパーで買ってきた惣菜とビールを並べてインスタント花見。

向こうの公園から物産展のエンドレステープが流れてくる。どじょっこだのふなっこだの春が来ただの春のうららの隅田川だの、うるさいったらありゃしない。うるさい日本の私。ロンドンの音の話や日本の音の話をする。
ヒップホップやグランジ(ちゅうかJ−POP)が流れてるハンバーガー屋で、「ありがとうございましたー」と御丁寧なスマイルをされるのはとてもヘン、とリッチー。ぼくは店内放送はうるさいと思うけど、音楽と店員の態度の一致なんてことは考えたりしなかったので新鮮な感覚だと思った。でも、コーディネートされたハンバーガー屋ってのは、たぶんすごく居づらい場所だろうな。ディズニー音楽がかかってるハンバーガー屋で「ありがとうございましたー」なんて言われたかない。

花見で風邪を引いたのか頭重し。久しぶりにヨ・ラ・テンゴの「ビッグ・デイ・カミング」
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