月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12




19990615
▼1回生の「環琵琶湖実習」では、彦根の情報誌を作る、というのが課題なのだが、輪転機やらコピー機やらの使い方でてんやわんや。じっくり、イラストレーターとかページメーカーの使い方も教えてさしあげたいところなのだが、とてもそんな余裕がない。

▼大学から駅までのバスはさほど乗客が混んでないせいか、バス待ちの順番がルーズ。先に停留所に来た人が先に乗るとは限らない。そこで、大学のバス停待ちをする人々が、バスが来て乗り込むときの順番のルールの研究。立っている人は先に乗りやすい。待ち行動をせずにバスが来る時間にバス停にアプローチしてきた人は順番をぬかしやすい。同じベンチに座っている人同士の間では順番が保存されやすい。などといった傾向がどうやら検証されそう。

19990614
▼さて今週も講義実習週間、へとへとこなすぜ。学生によると、「先生講義やってるとき倒れるんちゃうかて感じするときあるし」はあ、そんなにへとへとしてますか。しかし、そういうきみたちもへとへとしてるぜ。お互いこの暑さにやられてるのだ。夏もホットコーヒーと決めてるのだが、さすがに冷房なし+マシン熱でむんむんの部屋でホットはきついので麦茶ポット購入。

▼外面、ということばはふつう、「外面的な考え」「外面はつるっとしているが中はぶよぶよ」「外面からの攻撃に耐える」などという言い方で使う。視点を面から離れたところに置いて、まなざしが面に当たる視覚的表現や、面を外からなでる触覚的表現が多い。
▼しかし、明治には次のような表現が多いことに気づく。


寝台を這い下りて、北窓の日蔽を捲き上げて外面を見卸すと、外面は一面に茫としている。(漱石「永日小品」)

この寒き日をこの煖き室に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何に、と思到れる時、宮は殆ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜しさを悶えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面を何心無く打見遣れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。(尾崎紅葉「金色夜叉」)

 その内に紳士の一行がドロドロと此方を指して来る容子を見て、お政は茫然としていたお勢の袖を匆わしく曳揺かして疾歩に外面へ立出で、路傍に鵠在で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈めて皆それぞれに分袂の挨拶、叮嚀に慇懃に喋々しく陳べ立てて、さて別れて独り此方へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺を環視わした。(二葉亭四迷「浮雲」)

▼面を透過し、通過する感覚がこれらの文章には立ち現れている。
▼ひとつには、この時代の「硝子」がそのような感覚を助長しただろう。明治事物起源(石井研堂)8巻p166によると、硝子障子はやはり明治初期以来のものだったらしい。「新式に硝子戸の店を造った唐物屋の前には、自転車が一箇、半ば軒の雨滴に濡れながら置かれてある。」(花袋「田舎教師」)とあるところから、明治30年代、硝子戸が田舎ではまだ「新式」だったことがわかる。
▼もうひとつ、これは推測だけど、明治29年に日本に紹介されたレントゲン氏のX線のイメージが、こうした面の透過のイメージ群にあずかってないだろうか。

▼・・・というような話をした後、面に関する語彙をWWW検索して、現代の面のイメージについて考察しなさい、というのが三回生向けの「コミュニケーション論」の課題。

19990613
▼今夏のTex Averyの上映会用に原稿。さわりをメモっとこう。


やっぱり映画館だよテックスは。パースペクティブの歪んだ強引な空間移動、大スクリーンで見るとその効果のすさまじいこと。「ドルーピー/つかまるのはごめん」で、その歪みまくった空間にさんざ振り回された後、ドルーピーと狼がマンホールに入って目だけになったときなど、彼らと一緒に映画館という同じ穴に陥ったような、親密すぎる気分が爪先から立ち上ってきて、しかもその感覚をもたらしたのが、ただの黒い背景だということに気づいて、思わずトリハダが立ったことでした。

 そう、テックスはただの幕だ。幾重にも風景を重ねてかわいい生き物をあちこちに遊ばせ、管弦の美しい響きとともに銀幕の奥へ奥へと誘う、そんな甘いアニメーションのスタイルはコテンパンにぶちのめされ、映画はすぐ目の前でただの幕になって垂れ下がっている。そのただの銀幕の前で、ぼくはしびれ、トリハダを立てている。

(ユーロスペース、BOX東中野で今夏公開予定、だそうです。)

19990612
▼さらに粘って原稿。日清戦争實記の話を接ぐ。

▼「内田百間のの字が出ない」式の旧漢字問題。最近、雑誌で明治の文献やたら引用するようになってきたんで、人ごとじゃなくなってきた。▼印刷書物を作るために電子メディアを使う、という点では問題はない。編集の須川さんとはE-mailでやりとりしてるんだけど、ほとんどの旧漢字は先方と漢字コードが同じなので、問題なく伝わる。須川さんが校正所に流す段階で旧漢字の部分は文字化けが起こるけど、これは校正段階で編集サイドとこちらで直す。鴎外の「おう」の字(中が〆じゃなくて品なんだよな)のように、双方のパソコンの日本語変換で出ない文字は、別途指定。でもこういう特殊文字は一回に一個あるかないか。

▼HTML上ではしょうがないので、字を作る。ソースをみてもらえばわかるだろうけど、の字には「ougai.gif」という画像ファイルを、には「hyakken.gif」という名の画像ファイルをあてている。おうがいとひゃっけんにしか使わないんじゃないの、こんな漢字、ってイヤミです。そういや、あるときから急に、自分の名前の「浜」を「濱」と書く人とか「沢」を「澤」と書く人がふえたけど、あれは誰かが音頭をとったんでしょうか?なんかワープロ普及の頃にどっと増えたような気がするんだけど、だとしたら、妙なことだ。文字が筆蝕によって復活したのではなく、筆蝕を失い変換一発で呼び出せるワープロの文字によって復活したのだから。旧漢字というズボラの産物。まあ、この旧漢字ワープロ復活説は憶測なので、ちと裏をとらねばなるまい。

▼E-mailで煩雑なのはフリガナの指定で、別行にするとフォントや改行によってずれかねない。ぼくの場合は、私(#わたし)の場合(#ばあい)、てな具合に、記号化して一次元に配列しているが、これは須川さんには負担だろうな。▼今回、ふりがなと傍点は同時にうつと行関係が狂うという事態があった。このあたりは対応策が必要か。▼変体仮名や略号はふつうのかなづかいに開いている。まあ自分しかもってない貴重文献なら原典通り書くべきだろうが、公共図書館で閲覧できるていどの図書なら、あまり極度に原典のかなづかいにこだわる必要はないと思う。

▼花袋の「重右衛門の最後」の引用などは新潮文庫版の新かなづかいですませてしまった。内容分析には新旧はあまり影響しないから。ただ、明治の屈曲する感じを出そうと思うと旧漢字旧かなづかいというヴィジュアルはわりと効くので、原典通りに引用するのが理想ではある。いつか原典を借りようとは思ってるんだけど、図書館行くとどうしても自分の持ってない本を借り出したくなってしまう。

▼むろん原文の校正者となるとそうはいかない。


次に外の本文の校正刷を見たうちから、もう一つ引用する。「舞姫」の冒頭である。「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」
 雅文体の三部作については、小堀桂一郎氏の「若き日の森外」に詳しいテクスト・クリティクが載ってゐるが「徒なり」は原稿、初出誌「国民之友」、「水沫集」ともに「やくなし」で、「塵泥」で初めて「徒なり」に変つた。ルビはない。この字を現行の文学全集は、筑摩版を含めてすべて「いたづら」と読んでゐる。私はこれを「あだ」と読みたい。これも語感の問題だが、「やくなし」を集成して「いたづらなり」とするよりは「あだなり」とする方が自然なやうな気がする。
(福永武彦「外のルビ」新潮/昭和46年11月)

▼漢字を救え問題に関しては前田年明氏の考察が明快。▼漢字論の本質的な問題は、パソコンレベルの日本語変換がどれほど特殊漢字をフォローしているかではなくて、(あの!)白川静の書く次のような問題ではないか。いたずらに旧漢字を書くことだけで、漢字文化を守ってるつもりになってる人は以下の箇所を読んで大衝撃を受けよ。


現代の課題として、文字を簡略にし、表現を平易にすることは、もちろん必要であり、略字体などはもっと積極的に検討してよい。文字はそのようにして展開し、カナはそのうえに成立した。略字にはなお歴史があり、約束もある。以前にも、教科書で扱われたことがある。しかし字形の変改というのは、話がちがう。それは略体ではなく、奇形である。恣意的な変改である。字に外科手術を施して、みえをよくしようとしたのであろうが、目鼻を削って奇形化したにすぎない。字が泣いているようで、いたましい。それはささいなことのようであるが、こういう問題に対するそのような意識のうちに、何か重大なものが欠けているように思う。
(白川静「文字逍遥」平凡社ライブラリーp382)

19990611
原稿、3回生の会話分析、夜はACTでイームズの話。「Design Q&A」を同時通訳する試み。運動場をただ洗うだけの「Blacktop」などを見せる。原稿のフィニッシュが決まらない。ここは「つづく」かな。

19990610
朦朧とゼミ、講義、原稿、の合間に健康診断。忙しさをダメージで測り出したいのに、血圧も取り立てて特徴なく、問診も滞りなく済む。もう胃がぼろぼろです、も、投げたときにピシっと音がしたら終わりです、もない。まあぼくの言う忙しさなど世間的にはバカンス並みだとはわかっているが、バカンス以上に働くとくたくたになってしまうのだ。あ、血を抜かれた。

19990609
同居人と喧嘩、現実の皿が何枚か割れる。皿は割れ講義は続く。猫は段ボールを選択し続ける。原稿、パノラマ的現実の話。いまごろXTCの新譜を買う。いい。のはわかってんだ。んー。いいな。

19990608
会議会議演習ばたばたと過ぎさらに懇親会。
▼あれ、言文一致の話は柄谷行人の「日本近代文学の起源」に書いてあったんだ。

 第二に、前島密の低減が興味深いのは、一般に考えられているような言文一致とはちがって、「漢字御廃止」ということを主題にしていることである。それは言文一致の運動が根本的には文字改革であり、漢字の否定なのだということを明確に示している。
(柄谷行人「日本近代文学の起源」講談社文芸文庫)

▼はい、基本文献です。読んでませんでした。風景論が書いてあったなんてことも、ちーとも知りませんでした。これからは謙虚にこういう本を読むことにします。▼それにしてもこの本には「私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治二十年代である。」と、さらりと書いてあるんだが、その根拠が書いてない。▼ぼくの考えではそれは明治二十三年から明治三十五年の間のできごとだ。その根拠は次号ユリイカで。

19990607
講義二本。イームズグッズをネットで注文。パワー・オブ・テンのCD−ROMが出てるとは知らなかった。シマの爪とぎ用にカーペット地の貼ってあるタワーを買ってやったのだが、シマはタワー本体よりも空になった段ボール箱の方が気に入ったらしく、その上で居眠りをしている。▼池田さんの本を読みながら考えること。あなたとわたしは、つきあうことができない、という可能性の表現。あなたとわたしは、ある種の質のつきあいができるかもしれないという可能性の表現。可能性の表現は社会性を帯びる。可能性が凝っていく場所にカミングアウトが為される。

19990606
▼京都へ。3月にもらったお仕立て券でスーツを作りに伊勢丹へ。とはいえ、スーツの良し悪し流行りをまるで知らないので、おおむね「みなさんこれになさってますけど」に従う。従わなかったのはワイシャツのカラーくらいか。▼暑くて帽子を買う。スマートでランチ。西春に寄ってからギャラリーそわかへ。ターリさんのパフォーマンスは金曜よりずっとよかった。テキストを思い出す行為と糸を繰り出す行為が拮抗しているのがよくわかった。糸をたぐる長さを変える妙。ギャラリートークに来ていた池田さんの本を買う。

19990605
▼6/11に「Power of ten」のイームズ夫妻の話を彦根はACTでやります。お暇な方はどうぞ。ってわけでチラシ作り。Illustrater使い始めると時間がいくらでもたつからこまるな。▼イームズの「Design Q&A」はテキストとイメージの合わせ方の基本。スチルを時間軸上に配置する行為としてのデザイン。ヒアリングして全訳を作ってみるが、ところどころ聞き取れないところがある。「Design Q&A」と「SX-70」を何度もみてたらむしょうにカメラを構えたくなって、家の中をデジタルビデオのフォトモードで撮りまくる。ビデオ撮影を、スチルを配列する行為として考えること。さっき撮ったスチルからいかに身を引き剥がすか。


19990604
▼SLUDで発表。30分しかなかったので超圧縮モードで一気に話す。どう考えても音声処理の人は引く内容だったが、まあいいと思うのである。帰りに西本くんと地下鉄で扇子インターフェースの話。扇子の骨(というのか?)の部分にセンサつけたら、けっこうおもしろいだろうな。極座標インターフェースで文書開き。扇子オブ・ワンダー。あと、圧力センサとかがついてて、あおぐと画面がゆらゆらしたりとか。落語家にモニタしてもらって、基本動作を考えるとか。▼ギャラリーそわかでイトーターリパフォーマンス。膜破り。▼みなみ会館でノルシュテイン。ノルシュテインノルシュテインノルシュテイン。光の技術はみんなここにある。漱石の「霧」を思い出す。

19990603
講義。機能の説明。明日の準備。

19990602
▼最近レンタル屋でみかける「トムとジェリー ドルーピーといっしょ」に入ってるのは、じつはチェコ製のトムとジェリーだって知ってた? Gene Deitch が1961-62に作った珍しいトムジェリを見ることができて、しかもドルーピーがカップリングという珍品。さすがはチェコアニメ、クオリティはともかく後味の悪さは他のどのトムジェリより抜きんでている。笑っちゃうほどには怖くないのが難点か。



19990601
▼じつは昨年すでに半分は見て忘れていた「lain」をいまごろ最後まで見る。いや、他のビデオを借りる用事でレンタル屋に行ったら横にあったから。忘れたころに見たせいか、どうも気勢があがらない。最後のほうは早送りしてしまった。▼声になっていることばについていけない。もう文字を読み上げている声でもなければ、対話の声でもない。会話が遅くてくどい。ぼくの苦手な生硬演劇の声。せっかく音声認識システムを使ったインターフェースをあつかってるんだから、ピカチュウ元気でちゅうよろしく「右」とか「こっち」とか「もっと上」とか、機械に認識させるための声が実際の会話の声を浸食していく話とかを聞きたかったなあ。わずかに「トラック47」(数字うろおぼえ)と言う声でしょうねんを責めるシーンに、そうした浸食が感じられた。▼レインの姉というのがつぶやくのが「ぴーぴー、ぷるるる」とかいう、機械音そのものなんだなこれが。鳥を表現しろといわれて両手をばたばたさせるくらい陳腐だよなあ。▼戦いの現場は機械対人間ではない。言対文なんだ。電話未満チャット以上の音声言語によって会話がなされるとき、そこでは、じつは現在もなお一致していない言と文が火花を散らして、声を屈曲させるはずだ。この日記が声になって読み上げられたら、死にたくなるだろう。逆に、爆笑問題「日本原論」の田中のツッコミは、彼の声を想起することなしには読むに耐えない。

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