月別 | 見出し(1999.1-6)


19990315
▼いよいよあと2日。3/17 18:00からはDJけろっぐの初ライブ at 彦根です。

「情報倫理の構築」ワークショップ
▼情報倫理、なんて書くと、いかにもサイバーエンジェルズのような倫理にうるさい人の集まりみたいだけど、じっさいは全く逆で、むしろ、ネットワーク上で人間がどんなふうに我知らず倫理的にふるまっちゃうかを考える人の集まりと考えたほうがいいだろう。
▼複雑な現状を悲観的に肯定するような内容の話が多かったんだけど(そんなまとめでいいのか?)楽観的に否定するよりいいんでないかと思いました。今日の部はちと思弁的な話が多くて、もうちょっとフィールドワーク的な内容が聞きたかった。その点で伊勢田氏の発表がいちばん説得力がありました。▼明日は応用的な話もあるらしい。


19990314
▼さまざまな活動で観客を魅了してきたジーベックが、方針変更だなんて?! ジーベック、という名前に少しでも記憶や関心のある方はとにかくこちらのページを見てこの十年の財産を御覧の上、支援のページに飛んで下さい。

▼三輪眞弘氏の限定版4枚組CDをぶっ通して聞く。いやあ、なんちゅうか、熱くて真摯でその結果はからずもトボけた味が出るこの独特さを何と申し上げればいいでしょうか。プログレも放送部絶叫も自分で自分を拍手してしまうピアノ曲も、正しく現在の氏のスタイルにつながっているこの数奇な一貫性。パンクがブルーハーツの「ぼく、パンクロックが好きだ」という言葉を持ち得てしまったのと同じくらいの衝撃。

▼学生にしてプロのマジシャン、謎の男チャーリーヤマグチのテーブルマジックを目の当たりにする。


19990313
▼実家にて。父のパソコンのHDの中身をあれこれ整理。▼ジーベックIncubator佐近田さんの日。▼50台のコンピューターから、水の流れる音がする。この場には、水の流れる方向が存在するらしい。しかし、その方向はまだ明かではない。方向の可能性だけが存在する。1台からタンゴが流れ出す。モニタの色が緑になる。音と光は、隣のコンピューターへと渡されていく。緑のタンゴの軌跡が描かれる。方向が生まれる。1台からささやきが流れ出す。モニタに文字が映る。読もうとして近づくと、文字はもう隣の台に渡されている。▼水の可能性。可能性を実現する緑とタンゴ、文字とささやき。タンゴが明らかにする水路。ささやきが明らかにする川。▼何年かぶりで久保田テツくんと会う。▼帰りに三輪さんと車の中でエロスの話。いや、まじで。行為Aの次に行為Bが来るとき、AとBが同じ行為の対象を持っているという感覚が、事後的にぶわっと立ち上がるのがエロス。というのがぼくの定義。あらかじめ同じ行為の対象を持っているのではないところがみそ。あと、パソコンがフリーズしたときにする小噺集を作るというアイディア。

19990312
▼試験監督。▼さるコレクターの方の家にお邪魔する。まあ出てくる出てくる貴重品文献の数々。それからは飲みモードになって5,6軒はしご。

19990311
▼すでに校正の段階になっているというのに、ようやく原稿粘って粘って書く。▼浮世絵界の版下・ゲラ摺り・校正とは。

■「板下というのは墨一色の主要な描線だけなのである。それも髪の生え際などはキチンと描いてあるわけではない。錦絵を見て、よくこんなに毛筋を通して細かに彫ったものだと感心するが、あれは彫師の腕の見せどころで、板下にそこまで細かく描いてあるわけではないのである。着物の柄にしてもそうである。板下には何も描いてないから彫上がったものを見ると、みんな白衣になっている。これを主板(おもばん)という。錦絵の版下は、この主板を彫るための下絵であるから、彩色してあってはいけないのである。
 主板ができると、二十枚ぐらいゲラ摺りして絵師のところへ持ってくる。絵師はそれに色板の数だけ一枚ずつ朱を入れて色を指定する。赤板の分が一枚、青板の分が一枚というふうに、その箇所を朱線で「赤」「青」と書いて指定するだけで、これも色は塗らない。これを色わけという。十色あれば十枚、二十色あれば二十枚の色わけが出る。彫師はこの色わけに従って色板を彫上げる。最後にこれを一枚に摺合せると、初めて錦絵としての試摺ができ上がるという寸法である。だから絵師自身も、完全に彩色されたものは、この段階になるまでわからない。それを色校正して手直しし、ようやく初摺版の印刷にかかるということになる。」(林美一「時代風俗考証事典」河出書房新社)

 

19990310
▼神戸はポートアイランドのジーベックで「Incubator」。iMac50台を床に並べてネットワーク化するというとんでもないイベント。その第一日めはカール・ストーン。どうもMovieとAIFFをMAXとmspで動かしているらしい。iMacは音がいいっていうけど、内蔵スピーカーの周波数特性はやっぱり狭くて、その低音のきかないガサガサした音がかえって味になっている。ウィーンで録ったというサイレンと時の鐘が50台から次々にこだまするのは気持ちよかった。しかし、もったいないよなあ、このイベント、一日一人、5人で5日間で終わっちゃうんだよ。ほんとは1ヶ月くらいやってもいいと想うんだけど、それじゃパソコンのレンタル代がえらいことになるだろうな。50台に対して毎日一日でインストールとリハをやるってのもすごい。11日:大谷安宏・12日:三輪眞弘・13日:佐近田信康・14日:赤松正行というラインアップです。パソコン50台が全部音源として鳴ってるとこなんてそうそう見れませんぜ。▼下田さん曰く「温泉に来たつもりで」というわけで、何分か見てはホールで雑談し、またホールへ。▼終了後近くの飲み屋で、岩淵さん+くりすとふぁ〜の「パラレル・ミュージック・ワールド」コンビとお話、ふぉーゆー。いやあ、やっぱたすけってすごいよねー、ふぉーゆー。

19990309
▼鴎外と花袋を読みつつ次回原稿。どうもこの取り合わせは原稿が進まないな。

19990308
▼飯を食って鴻の湯で朝湯。宿替えをしてもう一泊していくことにする。午前中はどの宿も受付がしまっている。川沿いの一軒に入って、荷物だけ置かせてもらう。▼文芸館へ。湯の町の文学はなんだかぼんやりしたことばが多い。湯あたりしたような吉井勇の歌。啄木が吉井勇にしっくりこなかった理由がよく分かる。館内に琴演奏の童謡のBGM。碧梧桐のがちがちした字だけが異様だ。

▼直哉は、大正二年八月、山の手線の電車にはねられて重傷を負い、同年の十月その後養生のため当地を訪れている。九死に一生を得た彼がこの静かな温泉街での小さな出来事、蜂、鼠、いもりなど小動物の死を見つめ、自らの生と重ねあわせることで書き上げたのが名作「城の崎にて」である。(城崎文芸館パンフレットから)

▼要約ってすごいな。

▼文芸館裏に石段がある。玄武岩かな。登ってみる。すぐ上に神社でもあるのかと思ったらけっこうある。そのうち城崎の町ごしに円山川が見えてくる。川幅の広がりと流れのゆるやかさが、山に囲まれて、細い湖のように見える。鳥居をくぐる。振り向くと、木立のすきまから遠く、川が開けて海になっている。すぐそこは日本海なのだ。山の中だと思っていたのに。てっぺんについたら雨が降ってきたので古い小さな祠の下の腰掛けに座る。朝湯のせいか、肩から上に柔らかい物が乗っているようなけだるさで、そのけだるさが、体を腰掛けの形に押していく。愛宕神社か。また愛宕だ。掲げてある寄進者の名前を端から読んでいく。知らない店、知らない旅館の名前。まだ雨はやまない。けだるさは続く。遠い鳩の群れ。白いのが一羽混じっていてよく目立つ。▼しばし無抵抗休息ののち、山を下りて近くのそばやで芋かけそば。宿でいっぷく。こういう旅館で出てくる小さなお茶菓子ってなんでうまいのかな。また散歩。やはり温泉地の遊技はスマートボールだな。でも昼間はやってない。ヌードスタジオだな。でも昼間はやってない。通りすがりに立派な蟇股があったのでお寺に入ってみる。本住寺。お堂の裏に石段が続いている。玄武岩かな。登ってみる。ちょっとした裏山。電車の音。山陰本線が真下をくぐっているらしい。尾根続きの小径を行くと、広場に古びたコンクリート製の物見の塔がある。スプレーの落書き以外には何の装飾もなく、てっぺんで猛禽が一羽、あたりを見まわしている。急な階段を登ると、猛禽は飛び立ったあとで、一気に眺望が開ける。遠く日本海から円山川、広々とした河川敷の向こうに連なる山のあちこちに低い雲がたなびき、それが湯けむりのように立ち上がって曇天に消えていく。目を近くに移せば、円山川から引かれた細い川端に城崎の町が山あいへと続いているのが分かる。さっきの鳩の群れか、やはり白いのが一羽まじって、愛宕神社のあたりをかすめて山あいに隠れ、ぐるりと裏山をまわって円山川沿いからこちらへ、それから瓦屋根の町の上を渡っていく。

▼温泉、高い場所、くどくど書かれる絶景かな。なんだか田山花袋みたいだな。田山花袋が城崎に冷淡なのは(「日本温泉めぐり」)、白樺派への反発もあるのだろうけど、このあたりの山に登らなかったからじゃないかしらん。

▼文学者は土地ぼめという役割を担っている。高みに登るものは国見という役割を担っている。高みから文学するものは聖なる土地ぼめを為すのであり、なにげない石段を登るときにも、意識の遡行を経て自らの力を引き出さねばならない。

▼文学者ではないので浴衣に着替える。昨日行かなかった外湯へ。大谷川の狭い側を行く。日が暮れて、くらがりで丸められた町並みの輪郭。抽象化された温泉街。まんだら湯の中はとりつくしまのない、銭湯のような作りだった。帰りは別の通りを行く。ヌードスタジオ炎は1500円。しまった財布を忘れた。スマートボール場の明るい照明。人気はない。▼夜中に、物足りなくなって冷蔵庫からビールとおつまみを出してしまう。こんなことなら買い出しに行っておけば割安だったのだけれど、湯浴みのけだるさで、あまり物を買う意欲が湧かなかったんだ。

19990307
▼山陰本線で京都から城崎へ。丹波の低い山並みの中腹に、雲がたなびいている。それが福知山を過ぎるあたりからずっと続いていく。談話における話題の推移に関する論文のレジュメを作っている。話題のような山、山のような夢、後戻りのできない眠りをたどっているように列車が川をたどる。なんていう川だろう。▼城崎からタクシーで城崎大会議館へ。川沿いに橋がかかっている。建物の向こうに逃げた水蒸気がけむりになってたなびいている。湯河原を思い出す。▼発表を終えて鴻の湯へ。露天風呂のうしろに裏山。裏山だが、これはそのまま丹波山地なのだろう。玄武岩らしい岩肌。椿が咲いている。細い雨が湯に当たる音。宿に帰る道は寒く、汗が引いていくが、浴衣の中はほのかに熱が残っていて、その暖かさを確かめるように、ももが擦れ合う。▼カニづくし。さしみを一口食ったときはとろけそうになったが、それから先はもうええっちゅうぐらいカニだった。▼明け方、カニの殻を破る音で目が覚める。高田くんがソファに座って持ち帰ったゆでガニを食っていた。

19990306
▼仕事モード。

19990305
▼彦根でアニメーションを見せて話をするの会。近所の子供がけっこう来たんだけど、プロジェクターの青画面が出るともうすごい騒ぎ。ブルーバックに影に映るのを見て、手を出すわ、立ったり座ったりするわ、飛び上がるわ風船は飛ばすわ。でも、これって、幻燈的なあかりを見た人間の反応としてはきわめてまっとうだよな。▼それでもアニメが始まるととりあえず座ってみてたりはする(もちろん「東映マンガまつり」式の、すげえ歓声と笑い声入り)。トムとジェリーの変遷をざっと見せたんだけど、「メカノ」っていうネコロボットがあちこち切り刻むのを見て、あちこちから「かっこいー」の声が。▼もう映画館で何度か見ている「ファンタスティック・プラネット」のDVD版を輸入。時間数からして一本しか入ってないだろうと思ってたら、なんとルネ・ラルーの未見初期三本(The Monkey Teeth, The Dead Time, The Snail)がおまけで入ってた。ストーリーは露骨に搾取と抑圧の寓話として読めちゃうんだけど、あの切り絵ごそごそ感は初期から表れている。▼一度相手の背中をなめてやってからそいつを食っちゃう化け物、べたっと光の形に貼りつくマーク、「ファンタスティック・プラネット」に出てくるものの独特のヤな感じ。単に好意の皮をかぶった悪意、というのじゃなくて、悪意がとってしまう形。悪意のプロセスの形。▼昔、どこの劇団の寸劇だったか(たぶんチェコだ)、二人が首に紐をかけて互いの首を絞め合う(だっけな)というのを見たことがある。おもしろいのは、その両端にひっぱられた紐に、後から出てきた女がひょいと洗濯物をかけちゃうところだった。

19990304
▼ユリイカ3月号に「十二階と風船」。五代目菊五郎と風船と十二階の関係、という、これまであまり扱われてこなかった話です。ご興味のある方はどうぞ。あ、もう次の号の〆切だ。▼とあるコレクターの方と電話で話す。あるところにはある明治のアイテムとそれに関する膨大な知識。

19990303
▼藤居本家からいただいた酒粕で作った甘酒は柔らかい米の味。▼で、永源寺こんにゃくを刺身にして食う。こんにゃくを魚に見立てて食うのだから、まずはわさび醤油である。これを口の中で噛み砕くうちに、正体みたり芋風味がしてくるのだが、この刺身から芋への転換点を楽しむのが、刺身こんにゃくの風情である。▼とかなんとかどうでもいいうんちくを書きたくなるのはまた鬼平犯科帳を読んでるからである。▼ここのところの「だんご3兄弟」のメディア露出度はすごい。しかし、聞いたことないやつが聞かずに話を合わせるための情報提供ってうんざりだな。「いま、時代は3兄弟」式の訓辞をしたいやつは、矢でも束ねて折り損なってりゃいいのだ。「ひるね」っていうところで、コーラスが前倒しで入ってくるのが好き、とか、そういう話は不思議と新聞には載らないもんだな。▼しかし、あの歌は映像みないとぴんとこないだろうなあ。アトム寿司の有線でかかってたけど、回転寿司のネタの繰り返しとフレーズの繰り返しが見事にマッチして最悪の組み合わせって感じでした。鉄腕アトム音の世界寿司ってのはどうでしょうか。なにがどうでしょうかなのか。

19990302
▼ひさびさに彦根図書館へ。舟橋聖一文庫って誰も使ってないなあ。いい場所なんだけどな。舟橋聖一の本棚がほとんどごっそり図書館の一室になってる。一時代小説家がどんな蔵書を持ってるか見るのはとてもいい刺激になる。ひとつの時代を書くのに作家がどんな資料を読み込むかを見ておくと、クリアすべきレベルがある程度わかる。▼もちろん、資料をあたればいいってもんではないが。▼谷崎潤一郎は引っ越すたびにほとんどの家財道具をうっぱらってたそうだ。

19990301
▼京都へ。成田くんと動物行動学ゼミで発表。課題は多いな。データの落としどころ。聴者のしぐさを見たあとで、手話経験があるかどうか尋ねなくては。▼ゼミの前に古本屋の表にあった一山いくらの絵はがきの中に「東京名所百景」。最後の数ページが欠けているが、当時の雰囲気を味わうにはまず申し分ない。しかも激安。ほら、愛宕の山から見た今世紀初頭の東京はこんなだよ。▼あとでやぶたくんとこで鍋。まだ4さいにならないみくちゃんといっしょにだんご3兄弟とかプリン賛歌を歌う。みくちゃんが途中でわかんなくなると、ぼくが歌って、するとみくちゃんが思い出す。「まだまだマロはー」まで歌って、また、その先がわからなくなる。ぼくが「か」と歌うと、みくちゃんは「え」といってから、その先を歌わずにちょっと待ってる。じゃあ「ら」だ。みくちゃんは「な」。で、いっしょに「いー」。いやあ楽しいねえ。さいしょは歌を忘れただけだったのに、いつのまにか、一音ずつかわりばんこに歌う遊びになってる。かわりばんこが結晶化してくる。

月別 | 見出し(1999.1-6)
日記