月別 | よりぬき


19981214
▼「ネコの毛並み」(野澤謙/裳華房)は、ネコの毛色と遺伝学の話の本だが、学の内容もさることながら、街を歩いて出会ったネコの毛色をかたっぱしから遺伝子記号でノートにメモしていくというその調査法がおもしろい。

「ネコ調査用野帳を用意して肌身離さず持ち歩き、ネコを見たらただちにその遺伝子型を記録する。此の習慣が見についてさえいれば、(ジェット機は無理としても)新幹線の車窓からでも記録がとれる。」

新幹線の車窓から、というのがすごい。まるでドカベンだ(ドカベンは新幹線の車窓から外を見ながらジャストミートの練習をする)。

▼で、うちの猫もこの本にしたがって遺伝子記号で書いてみる。まず、真っ白ではないからwwだ。つぎに茶色はまざってなくてメスなのでoo。▼ここがOoだと、茶色と黒がまざって、二毛や三毛になるらしい。なお、oはX染色体に乗ってるから、オスにはひとつしかない。だからOoというのはふつうメスにしか現れない。というわけで、三毛猫のほとんどはメスなのだ。▼で、次。毛の根元と先端が黒で中間部が褐色なので、アグチA-だ。セピア色の原因となるbbは日本にはあまりいないそうだから、まあB-だろう。チョコレート色やカラーポイントなどの凝った毛色ではないので、C-。キジネコ風のサバトラ縞模様(タビー斑)なので、T-。銀色ではないのでii。色は薄くないのでD-。ぶちがあるのでS-。それからこれは毛色じゃないけど、しっぽが長いのでL-

▼以上まとめると、wwooA-B-C-T-iiD-S-L-というのがうちの猫の毛色の遺伝子記号による表現、ということになる。遺伝子記号ってややこしそうに見えたけど、やってみるとできるもんだな。▼しかし、すごいよなあ。猫見ると、こういう記号が頭に浮かぶ人って。この本では国芳の「猫飼好五十三疋」の毛色やしっぽも分析されてる。国芳の絵の猫はどれも尾が短いけれども、ああいう短尾の猫が描かれたのは主に19世紀半ばの浮世絵だそうで、十五世紀から十九世紀にかけては長い尾が好んで描かれていたという。

▼よく、白猫の親と黒猫の親からぶちが生まれる、と言われるが、あれは正確には間違いで、白黒とは別の、ぶち遺伝子Sがあるかどうかが、ぶちの決め手らしい。白猫にはぶち遺伝子Sが入っている可能性がある(Wがあると、ぶち遺伝子Sがあろうがなかろうが白になる)が、黒猫にはぶち遺伝子Sはない(もしSがあったら、黒猫ではなく白黒のぶちになってるはずだ)。だから、白猫と黒猫のあいだにぶちが生まれるのは、白の遺伝子と黒の遺伝子がまざったせいではない。白猫親がたまたまぶち遺伝子Sを持っていたせいだ。▼だから、親が白猫どうしでもぶちが生まれることがありうる。たとえば、両親がWwS-なら、wwS-の子供が産まれる可能性がある。 ▼ちなみに、三毛猫と二毛猫の違いは、色の遺伝子の違いではなく、ぶちがあるかないか、つまりぶち遺伝子がS-ssかの違いなんだそうだ。そういや、三毛にあって二毛にないのは、白、つまり色のない部分だもんな。▼欠けたものとしての白。

▼漱石の猫にしろ百間のノラにしろ須和野チビ猫にしろ、家の外に人間様の知らない猫づきあいがあるところが味で、こうした猫の毛色研究も、そうした半家半外の猫のありように基づいている。人為選択のようで猫選択。猫の得体の知れなさの多くは、半外にあるのだろう。▼うちの猫は家猫で、その半外から隔てられている。最近、風呂場の戸の向こうで物かげが動くとわおわおと鳴くようになった。


19981213c
▼ところで、会話分析で避けなければならないのが、こういう「未来からいまを捉える」という感覚だったりする。▼会話分析は、未来からのまなざしの誘惑にうち勝たねばならない。なんていうと、かっこつけてるみたいだが、話はごく具体的だ。会話をすべて文字に書き起こす、という作業がくせものなのだ。誰が何をいつ言ったか、いつどんなしぐさをしたかを綿密におこす。ところが、こういうデータを手にすると、「会話の流れ」というやつを読みとりすぎてしまうことがある。話し手がどういうつもりで言ったかわからないはずなのに、その後の「会話の流れ」からそこに解釈を加えてしまう。話し手が話した時点では、その先にどんな会話の展開が待ち受けているかわからないはずなのに、分析者の方はその先の展開を前提に、話された時点でのことばの意味を考えてしまいそうになる。これでは、話し手のことばを考えようとして、話し手の知らない未来からのまなざしを使ってしまうことになる。▼だから、会話データを見直すときは、全部の発言をばっと見るのではなく、巻物のように、後ろの会話を隠しながら読んでいった方が、話されたことばの性質がよくわかることがある。

▼しかし、いっぽうで、会話とは、過ぎ去ったことばに話し手がつぎつぎと別のことばをくっつけていくことでもある。くっつけながら、お互いにお互いの過去のことばの意味を構成してしまう。会話に参加する人は、過去の発言を貪欲に使う。 ▼会話分析の本によく「適切 (relevance)」「可能性 (possibility)」といったことばが出てくる。たとえば、ひとつの発話の中で、文法的に区切れてたりイントネーションが終わりを告げつつある場所がある。こういう場所では話し手が移りやすい。でこういう場所のことを話し手の「移行場所」とは呼ばずに「移行適切場所 (transition-relevance places)」と呼ぶ。必ず移るわけではなくて移りやすいのだ、というニュアンスだ。「適切」とか「可能」ってのはまわりくどい言い回しで、会話分析がやっかいに見える原因にもなってるんだけれども、じつは、未来からのまなざしを欠きつつ過去を貪欲に使うという、会話の参加者がやっているごくあたりまえのことを表すための知ではないかと思う。

▼徳川慶喜最終回。最後はバタバタだ。上野寛永寺での謹慎が解ける経緯もおざなりで、例によって大原麗子が「いろいろあったらしいんだけど」でまとめてしまう。むしろ、上野戊辰戦争とか、慶喜が明治に入ってから元家臣に冷淡に接しつつ、写真だの釣りだのに興じた話とかをきちっと見たかったなあ。▼なによりオチがひどい。タイトル音楽に乗せて「日清戦争」「日露戦争」「対華二十一カ条」・・・「経済成長」「金満ニッポン」なんて教科書の年表みたいなカットの連続で、維新後から現代まで一気に時計を進めるのだけれど、そのような過去の振り返り方が、じつはとても安易なまなざしに頼っていることは、最後に「サリン事件」が入って「阪神淡路大震災」を入れることができなかったこと、そして、本来なら江戸東京史を語るときに絶対にはずすことのできない「関東大震災」を入れることができなかったことからわかる。この物語は、地震を未来からまなざすことにも、現在からまなざすことにも、耐えられなかった。

▼現在が揺り動かされ、過去にダンジョンを開く。でなければ、なんのために時を越えるのか。


19981213b
▼ゼルダでは、ある時点から、こどもとおとなの間を自由に往復できるようになる。マリオ64をやってたころ、ゲームを離れても、あちこちの建物を見上げると、そこにバック転で昇れそうな気がしてしょうがなかったけれど、ゼルダの後半をやってると、ふだんのできごとが、未来からの目で逆向きに感じられることがある。ある行為によってそれまでなかったダンジョンが過去に開けたり、ある行為が未来から決まってたり、という感覚が、フラッシュバックのようにやってくる。たとえば、「嵐の歌」を覚えてからダンジョンに入るとき。つまり日常が「眠れる森」だったり「ぼくの地球を守って(おなつかしや)」になったりする。え、いまごろそんなことわかったの、と言われそうだけど、いや、ぼくはじつは、こういう感覚をこれまであまり自分で体感したことがなかったのだ。


19981213
▼ふー、やっと森の神殿をクリアだ。で、馬を手に入れた。ぱかぱか走ってる。気持ちいいぞ。森の家にはでかい贈り物も届いた。大きくなること、速くなることは、小さくなること、狭くなることなんだな。そういう単純なことがよくわかる。

▼マリオ64は「ちびでかアイランド」で、空間感覚を変化させてみせたけれども、ゼルダでは、空間感覚を変化させる時間のほうを強調している。時間を強調するために、ひとつの空間にたっぷり時間をかけさせる。長い時間で空間と空間を隔てる。

▼ゼルダのこどもリンクでは、ワープゾーンは少ない。あちこちのダンジョンに行くためには、平原を何度も駆け回らなければならない。こどもリンクで平原を何度も走ったあとだからこそ、おとなリンクで平原を馬でくまなく駆けたときその意外な狭さがわかる。こども、おとな、という情緒的な区別が先にあるのではない。まず、移動能力の変化があって、それが空間感覚の変化をもたらし、ああ、ここはこんなに狭かったんだ、という風に、自らの成長を確認する。


19981212
かえるさんレイクサイド第三十話「色を見たかい」。

▼ゼルダ。あちこち抜け穴が見つかって、頭の中の地図が伸びたり縮んだりするのがおもしろい。もちろん、世界に抜け道を見つける、なんてこたあ、パソコンゲームではウィザードリーの昔からあったことだ。が、3Dスティック空間だとやっぱり違うのだな。特に高さの違う場所に出たとき。ある偶然で、ある抜け穴から知ってる世界に出る。すると、世界が文字通り、角度が違って見えるわけです。抜け穴を出た瞬間、あ、これ、知ってる世界だよ、と気づく。いっぽうで、あ、いままで、ここに立って世界を見たことなかったよ。とも思う。具体的に言うと、墓から風車小屋に出るときとかね。▼マリオ64もそうだったけど、見上げるとか見下ろすとか言うのがとっても楽しい。

▼いわゆる「男の倫理」系(いま考えた)の漫画で「違う景色を見たくないか」ってセリフがあったような気がする。んー、狩撫麻礼か(それとも関川夏央か、はたまた本宮ひろ志か、もしかして村上春樹か?つまり「男の倫理」というくくりだと、こういう人たちがなぜかいっしょこたになるのだ)

▼倫理な男は、ちまちまゼルダなんかやる小生意気なガキに女性問題でイタいところつかれて、気晴らしでもないがスパゲティでも茹でようと思ったら塩を切らしてるので、貧相なコートをはおって本当は好きではないコンビニに向かう途中、黒眼鏡の折り目正しい男が、折り目こそ正しいが有無を言わせぬ態度で車に押し込むので渋々従えば、飛行場で今度はヘリに押し込まれ、どこまでいくんですかいと問うてはみたものの、黒眼鏡が答えるわけもなく、答えてもらわなくとも行く先にいるのが特に名を秘すVIPであることはこの強引かつスムースな事の運びからも明らかで、やれやれとため息をついて窓の外を見ると、マンハッタンのゴージャスな夜景にへえと声をあげる、なんて、そういう景色を見るべきである。


19981211
▼あるツアーをめぐる会話の分析。お互いが部分的知識しか持たないで、そのツアーの話をしている。その部分的知識を「ツアー」にくっつけていく。そのたびに「ツアー」がぶよぶよと変化する。このとき、「一人一人が違うツアー観を持って放す」ことを会話として考えるのでなく、「ツアーに関する知識が示されながら、ツアーが変化していくプロセス」として会話をとらえること。その変化に実体はない。ないが、「それ」「あれ」ということばがあたかも「ツアー」という実体があるかのように思わせる。


月別 | よりぬき





Beach diary