月別 | よりぬき


19981115
▼淀川長治氏の最期の解説。
▼川沿いの道は霧で、自転車のハンドルがねばりつく。
▼人は約束を守ってから約束をするのではない。オースティンは「約束する」ことと、「約束を守る/破る」ということを区別している。つまり、約束した時点で、約束という行為はなされたのであって、それを守ったり破ったりするのは、約束した時点とは異なる時点での行為だ、というわけだ。▼別の言い方を試みよう。約束は、ある時間と別の時間を対照させることをめぐる行為だ。「約束する」は、時間Aにおいて、時間Aと別の時間Bの関係づける。(時間Bは「いつか」や「そのうち」かもしれない)「約束を守る/破る」は、時間Bにおいて、時間Aと時間Bを関係づける。現在に未来を関係づけることばはなんでもオースティンの言語行為論に乗りうる。予測、宣言、占い、期待。▼遺言。▼現在において過去が問題になるものはどうか。記憶、追憶、忘却。これら時間Bから匂ってくるのは、時間Aの不在、約束の不在だ。
19981114
▼工繊大の西本くんのところで羽尻さんとぼくとで3人だけの研究会。「コンテンツはいらない」「チャット画面にはオーバーラップはない」「声に出したことは資源になる」など名言があれこれ出るが、こうやって文脈をはずしてみると、何が名言だったのかよくわからないな。▼ハマりの研究をする場合に問題となるのは、いかにハマりを測るか、だ。たとえば、チャットにハマる、という経験がある。しかし、そのハマってるっていう状態を外から観察できるだろうか。たとえば、単位時間のタイプ速度か。はたまた、前傾姿勢の度合いか。あ、でも、ブラウン管との距離の時間変異を測ると、平均距離が短い時間帯がある、なんてのはありそうだ。どうでしょう羽尻さん。イライザの話おもしろかったよ。
19981113
▼むかし、桑原茂一が中心となって作ったRadio HeavenというCDに「日本人」というトラックがあった。男と女がずっと「日本人が、いないなあ」「日本人が、いないわあ」とうっとりしながら繰り返すだけ、という内容だったように思う。▼それだけのことから、この男女が、日本人がいることを問題にするような人であり、そこは日本人がいることが問題になるような場所であることがわかる。そして彼と彼女の流暢な日本語の発音は、彼らの母語が日本語であるらしいことを示している。▼つまり、そこは、日本人がいてもよさそうな場所のカテゴリーに属していながら、日本人がいない場所だ。語り手以外には。▼「○○がない」ということばを発することは、「○○がある」という事態を問題にすることである。というようなことを会話分析の創始者の一人であるサックスは考えた。ことばが発せられたとたん、そういう問題が明らかになる、と。ことばの発し手がそういうことを伝える「意図」があったかどうかは問題ではない。ことばが発せられると、まるでスタートアップスクリーンのようにそういう問題が事後的に立ち上がるのだ。▼「日本人がいないことが問題になるような場所」として「観光地」「火星」「冷蔵庫の中」などを考えよう。▼そして「観光地」でありながら日本人のいない場所として「彦根城」を考える。「火星」でありながら日本人のいない場所として「その裏側」を考える。「冷蔵庫の中」でありながら日本人のいない場所として「野菜ポケット」を考える。▼はっきり言ってオチはない。(と断る以上、この文章は、オチがあることを問題にしている)
19981112
▼女王「ネモ、くるのです、わたしといっしょに庭へ。さあ!」案内のキャンディ「いや!いやよネモ!起きちゃいや!いまはいや。いや!いや!」ネモ「いや!いやだ!いや!いや!いや!」医者「女王様のご機嫌を損ねるではないか、お前が女王様と行くのをいやがるなんて」▼母親「おかあさんにいやなんていっちゃだめよネモ、起きなさいって言ってるんだから。いけませんよ、そんなの」("The best of Little Nemo in Slumberland" P97)▼「いや」ということばは、夢からの誘いを断ることばでもあり、うつつからの誘いを断ることばでもある。女王のことばは母親のことばと重なり、夢からの誘いはうつつからの誘いと重なる。▼イエスとノーの宛先。何かに「いや」と言い続けている間だけ持続する夢。▼
19981111
▼「政治をするサル」の著者ドゥ・ヴァールの講義。▼彼の撮ったチンパンジーたちのスライドのひとつひとつは、何ヶ月(または何年)もの観察の中でようやく出くわしたシーンなのだけれど、それが目の当たりに、まるでほんの数日もアーネムやヤーキースにいれば見ることができる出来事であるかのように映される。▼エレベーターの中の行動のことを研究してるんだけど、といったら、もうすぐアカゲザルとチンパンジーの閉所における行動の話を書くんだけど読みたいか、と聞かれた。もちろん、といってから、それは何年分のデータ?と聞き直したら、10年分だ、といってた。▼チャンコ鍋を食べながら、チンパンジーの飼育集団を維持し続けることの(経済的な)難しさを聞く。▼帰りの車の中で、アーネムのチンパンジーのうちの一匹が自ら池にはまって溺れて死んだ話。池にはまった原因は「恐怖による混乱のあまり」だそうだ。自殺だって言い方をする人もいるけど、まさかね、とドゥ・ヴァール。彼が「マッシュ」の俳優とTVに出たという話を昼にしてたので、Suicide is painless. It brings on many changes. って歌がマッシュにあったな、と、口がすべってしまった。彼は、その歌は知らない、ふうん、painlessか、と言った。チンパンジーのpainに対する感情移入は、彼とぼくとではもちろん、まるで違う。いらぬことを言った。▼その歌は「And I can take or leave it, if I please.」と続くのだっけ。
19981110
▼"The best of Little Nemo in Slumberland"。この緻密さでウィンザー・マッケイがアニメーションを描いたらどうなっただろう。▼リトル・ネモは一話ごとに夢オチがあって、まとめて読むと、この繰り返しが効いてくる。夢オチは、右端の小さなコマで、ほとんど夢の部分に押されている。夢オチが跳び箱の踏み台のように、次の夢のための夢オチへと反転する。▼ぼくは目覚ましが鳴ったときに一発で起きるのが苦手で、10分ほどアラームの針を進めてまた寝たりする。これを何度も繰り返すこともある。短い時間で起こされるから眠りが浅くなり、どうでもいい夢をたくさん見る。この眠りの浅さと、「リトル・ネモ」の感じはよく似ている。信頼のおけない眠り、追い立てられるような休息、そんな居心地の悪い場所に進んで入ろうとしたくなるのはなぜか。
19981109
▼壁越しに聞こえるこもった電話の声は、ねごとのように聞こえる。▼鍋。ヨタ話をしているときこそ、じつは自分のバッファがいまどれくらいいっぱいかがわかる。バッファがたくさんいりそうな話題を周到に避けることに腐心するからだ。腐心の結果としての会話。終わらせるための始まり。▼断章という性急さ。予感だけをいち早く書きとめたいと思う貧乏性。
19981108
▼毎年学園祭で生活デザインコースの学生がファッションショーをやっている。自分で作った服を自分で着てステージに立つ、という出し物で、舞台の上でのはにかみや躊躇はいかにも学生らしいものだけれど、これを見るのは楽しい。特に、風船、花束、水鉄砲の水、キャンディー、ちょっとした笑みや憤りの表情、しぐさが交わされるとき。舞台で風船が彼女から彼に渡され、また彼女に渡され、空に放されるとき、あるいは観客に手渡されるとき。なんでもないものを誰かから受け取り、それをまた誰かに渡す。なんでもないものが意味を帯び始めようとする。でも、まだ意味は満ちていない。それが意味の器だということだけが分かる。空に風船があがっていく。あがっていくことが、そこにはなにか希薄なものがつまっていると思わせる。▼もちろん、それはヘリウムだ、という話ではない。
19981107
▼学園祭のフリーマーケットで「ラッキー・パズル」というのを買った。これはタングラムというオモチャの一種。前から木製のタングラムが欲しかったところだ。▼解説には「昭和10年12月1日初版」とある。けっこう古い。「古代エジプトの古墳に書き残された画文字から考案された数学的な遊戯です。」とあるが、タングラムは中国の「タン」という遊びが元だったと言われている。18世紀にそれがヨーロッパにわたり、ナポレオンがはまり、ルイス・キャロルもはまった。▼7つのピースをハトだとかヒトだとかの形を組み合わせる。いっけん他愛ないように見えるけど、じっさいにやってみると、けっこう難しい。▼3D描画で「陰線処理」ってのがあるけれども、タングラムは「陰線処理」の逆で、陰になっている線がどうなっているか考えなさい、といういわば「陰線推測」の問題だ。で、「陰線処理」は一意に決まるけれども、「陰線推測」は一意に決まらない。つまり「陰線推測」は、一種の逆光学もしくは逆問題、なのだ。▼しかし、その逆問題を解く為の癖というのが人間にある。たとえば、「角ばった部分は、2つのピースに分割しにくいのではないか」「角の大きさが2ヶ所以上一致するならばそのピースはあてはまる」(これはあくまでぼくの経験則だけど)という具合に。こういう癖がおそらくは拘束条件になって、一意に決まらないはずの逆問題が解ける気がするわけだ。▼ところがタングラムというのは、ひとつの角や辺に2つ以上のピースが関係する組み合わせがけっこうあって、これが人間の考え方の癖の裏をかくようだ。角の多い図形が解きやすそうで意外にトリッキーなのは、このあたりに原因があるのではないか。
19981106
▼マイラ・メルフォードのライブ。とにかくピアノからたった2m足らずの至近距離で、ほとんど高校の音楽室ですげえうまい友達のピアノをゆっくり聞かせてもらってる的状況だったんで、それだけですごいハッピーだったんだけど、共鳴ペダル踏んでるときより、ブギウギ左手にかりこりめちゃリズム右手のときが聞いててきもちよかったす。そのあと彼女とあれこれはなしたんだけど、彼女はシカゴでフランク・ロイド・ライトの設計した家にすんでたんだって。だから近江八幡のヴォーリスの建築の本とかをすごく興味深そうに見てた。そういえばピアノのスタイルもとってもコンストラクティブだったな。以上3分感想。

▼あまり餌をくれない奴には、こちらからも餌をやらない、ということをチンパンジーがやるためには、どんな認知能力が必要だろうか。▼まず個体識別が必要。さらに、その個体が餌をくれる/くれない、という場面に会うたびに、「餌くれる度」のような特定の評価が計算されることが必要。さらに、その個体に餌をやる/やらない、という場面に会うたびに「餌くれる度」が参照される、ということが必要だ。

▼つまりこのような相互行為では、
次の二つ
1.相手が餌をくれる/くれない
2.相手に餌をやる/やらない
の両方の場面で、「餌くれる度」が計算し直され、参照される必要がある。

▼ところで、場所に関わる能力なら、チンパンジー以外の動物にも同じ構造のものがある。
つまり次の二つ
1.その場所に行ったら、餌が豊富/貧弱
2.その場所に行く/行かない
の両方の場面で、「餌とれる度」が計算し直され、参照されればよい。
これは餌パッチを評価する動物、たとえばミツバチなどがやっていることだ。

▼では、相互行為と場所の記憶では何が違うのか。▼まず、覚えやすさ、という問題がある。場所は、時間をおいてもあまり様子が変わらないから覚えやすい。でも、個体の場合は、時間が変われば、いる場所も変わる。▼もうひとつ、行為の種類と方向という問題がある。場所では、計算のときも参照のときも、「行く」という同じ行為が関わっている。一方、相互行為の場合は、二つの場面で餌をくれるということとやるという、方向の異なる行為が関わる。

▼学習実験の問題は、課題が場所的であり、相互行為的でない、ということだ。
つまり次の二つ
1.その課題をおこなったら、強化刺激(餌)が与えられる/与えられない
2.その課題をおこなう/おこなわない
の両方の場面で、「餌とれる度」が計算し直され、参照される。
どちらにも「その課題をおこなう」という同じ行為が関わっている。
いっぽう、相互作用では、行為の方向が1と2で違う、ということがポイントになる。

▼では、
1.その課題を他個体(自分以外の行為主体)がおこなう/おこなわない
2.その課題をおこなう/おこなわない
という設定にすれば、相互行為的だといえるか。いや、これはむしろ
観察という行為に属する。

▼相互行為をあえて学習場面に取り入れるとすれば、たとえば
1.選択肢AがXをくれる/くれない
2.その選択肢AにXをやる/やらない
という課題が必要だろう。たとえば、二つの皿のどちらかに、なにかのかけらが乗って出てくる。被験動物がそのかけらをとる。つぎに空の二つの皿が出てくる。被験動物がいっぽうの皿にかけらを置く。うーん、実験にはのせにくそうだな、こういう問題は。たとえば、皿、というのを相互行為の相手としてみなしてもらえるかが問題になってしまう。「機械は思考を持つか?」という被験動物からみたチューリング・テスト問題までここには関わってくる。

▼ところで、この課題において、Xがシニフィアンであったらどうなるか。欠けた中心を呼び合う相互行為としての会話。
19981105
▼WWWで公表した日記は不特定多数に読まれる。ここまではいい。しかし、不特定多数のために日記を書く、と考えるのはどうか。不特定多数のためになる、とどうしてわかる。不特定多数に失礼ではないか。いや、失礼だとどうしてわかる。ネコのために日記を書こうが、ネコノミのために書こうが、この前見損なった田村隆一の番組のために書こうが、しけったフリスクのために書こうが、不特定多数は読むのだ。だから、好きな長さで好きなことを書くわたしなの。さっきトイレで出なかった便のために書くわたしなの。便といっしょにしてごめんね。

▼楽しみにしていたレター本当にサンキュー。逗子も暑くて、全く世の中がいやになってしまうわ。休みなので人が一杯。アンチソラチンのオバケが来たこと。さしも広かった浜べもすっかりかくれた事よ。なんでも、羊と二人して紅と白との腕を振るってね、クロールをみせびらかしてやりました。そればかりか、海の真中の赤ハタまで行って、不良少年をこらしめてやりました。(「少女のレター」夢野久作全集2/ちくま文庫/p312)

▼448うううううううううううううううううう(いましがたキーボードを踏んだ猫の日記)

▼時と場所、つまり、ありかがわかってしまうと、それは満ちた中心になってしまう。ありかを告げずにそれを呼ぶ方法。欠けた中心をさぐることば。会話の共犯。

▼「姉さん怖かありませんか」 「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。又わざと怖がって見せる若々しい蓮葉の態度もなかった。 (漱石「行人」)

▼欠けた中心が浮かび上がる。お互いがこのような中心を浮かび上がらせるほどに、同じものに触れながら、ことを進めているのだと思えてくる。このとき、ほんとうに同じものに触れているかどうか、は問題ではない。中心が浮かび上がってくる感触が、事後的に「同じものに触れているからこそ、欠けたものの輪郭がこのようにはっきりするのだ」と思わせる。

▼頭の中の会話の共犯。それを欠けた中心として
意識へのぼらせる方法。

▼記憶は闇のなかからなにかを取り出してくるものだが、この闇は「あるとき」ということばによっては一挙に粉砕される。でも「よく」ということばによってなら、完全に無傷とはいかないまでも、少なくとも書き手のものの見方のなかには保存される。そしてその闇は、−ひょっとしたら生涯に一度も存在しなかったような、しかし、彼が記憶のなかで単なる予感としてさえもはや触れることのない部分部分に対する代用物を彼に与えてはくれるような、そうしたあらゆる部分部分へと−彼を案内するのだということが自覚されているからである。(カフカ「夢・アフォリズム・詩」平凡社ライブラリーp263)

▼ちなみに、この本に、ゾートロープのことを「生き生き車」と書いてあった(p249)いいネーミングだな、「生き生き車」。
19981104
▼学習研究とは、異なる時間のできごとを結びつけようとする力を測るものだ。課題をこなすことによって強化刺激を得る。いまここにないできごとを、いまここで行為することで期待する。これはまさに契約とか利他現象ではないか。学習という能力を、単に一人で考えるための知能として見るのではなく、コミュニケーション能力に含まれる能力として捉えることはできないか。▼おおざっぱに言えば、学習における強化刺激は、互酬的利他現象における相手からの報酬に対応する。学習実験における被験動物に対する知見は、互酬的利他現象における動物に対する知見と重なるはずだ。たとえば、チンパンジーのアイの好奇心の強さが互酬的利他現象の発生に貢献しているのだ。学習場面で食物報酬以外の強化刺激がチンパンジーにとって有効だということは、(少なくとも)チンパンジーの日常生活の中で餌以外をめぐる互酬的利他現象が可能だということでもある。▼強化の遅延時間という問題は、相手にどれくらい早く報酬を返してやればよいか、という問題と結びつくだろう。こなされる課題のバラエティーは、互酬において相手の欲する物を推測する能力を反映するだろう。▼もちろん、学習実験の課題や強化刺激の提示のされ方は、じっさいのコミュニケーションをごくごく特殊化したものだから、学習実験でカバーできないコミュニケーション能力が存在する。▼さっき、好奇心、と書いたけど、それを、契約の多様さへの関心、と書き換えてもよい。▼異なる時間のできごとを結びつける力。そこから、契約や記号の多様さへの関心が生まれ、互酬的利他現象が可能になる。▼と、いうことを、ドゥ・ヴァールの本を読み直しながら考える。
19981103
▼銀座街交差点に新しくできた「Studio Do!」へ。学生バンドがあれこれ音を出している。交差点から4方向へ歩いて、もう一度戻って、バンドの音の聞こえる範囲を確かめる。まず南、芹川方面に歩いていくと、橋本商店街方面では、時計屋の前あたりで音が聞こえ出す。西の銀座街方面ではグリルフレーバーの手前あたりか。有線が流れていて、その音が勝つのだ。東の花しょうぶ通りには屋根がなく静かで、ぼくは嘘寒い有線よりもこの方が好きだ。寺子屋あたりから音は聞こえ出す。すぐ後ろは袋町だ。北に伸びる登り町商店街の方は意外に音が消えるのが早く、伊勢屋のあたりでもう喧噪にまぎれる。以上4つの通りが接しているのがスタジオのある交差点だ。▼城まつり、というのだが、銀座街は静かなもんだ。キャッスルロードあたりで人が後戻りしてしまうのだ。キャッスルロードの終点を、終わりではなく次の町のはじまりとして見せる工夫が必要だ。焼き肉屋の並ぶ商店街は猥雑な小路の良さを秘めているかに見えるのだが、角地が遊んでいてもったいない。▼角地が遊んでいる、といえば、銀座街交差点の北東角地は銀行になっている。この銀行の建物じたいは洋風の気の利いたデザインなのだが、銀行は3時でシャッターを降ろすから、夕方の買い物時間を前に町の活気をそいでしまう。環境科学部の柴田さんの話だと、都市によっては、銀行の業務を2階で行ってもらうなどして、活気をそがない工夫をすることがあるらしい。▼さらに南西角地だが、こちらもパチンコ場がつぶれた跡で、いまは店舗を引き揚げたまま放置してある。つまり、スタジオが出来る前は、北西・南西の2つの角地が店じまいをしたまま放ってあったわけだ。もったいない話。▼ちなみに柴田さんとはまだちょっとしか話してないけど、そのちょっとの話を通して町の見方や変え方を教わっている気がする。なんといっても、スタジオを設置するにあたってこの角地を取ったところがとても鋭い。スタジオの二階は、きれいに掃除してあった。丹治君たち学生が何人かで片づけたという。こうやってみると、ヘアサロンの豪華なシャンデリアもバカバカしくていい雰囲気。今日はここで打ち上げをするそうだ。

▼戸川純の「マリィヴォロン」へ。賢治の「生産体操」翻案たのし。▼「昼間は婦人会のカラオケ大会がありまして」といった、北村想脚本の地方公民館のわびしさフレーズ。京都とかで同じ芝居を見たら、よそごとに見えると思うんだが、彦根文化ホールで見ると、これがなかなかにシミる。いや、彦根文化ホールは建物はとっても立派なのだ。問題はソフトと集客で、そのソフトのわびしさと集客のわびしさと、それでも旅は続くこと、それは一人芝居で一人旅であること、その旅人が戸川純であること、などなどが、宮沢賢治の因果交流電燈に照らされてせわしく明滅するのだった。▼髪をといてから逆さまにクシを入れてざくざくとけばだてるときの、自傷するかのような勢い。
19981102
▼Martial Solalのピアノはとても流暢でアイディアにあふれてるのだけど、切れてない。見事過ぎるアドリブ。自分でオチを用意してからしゃべる上沼恵美子みたいだ。▼ドビュッシー風の和音を次々とアドリブで弾きこなすSolalよりも、ジョビンの方がよほど「海」に近く聞こえるのはなぜだろう。「サーフボード」なんてまるで「海」の第二楽章だと思う。▼単にエスプリってえやつが苦手なだけなのかもしれない。ベリオの「シンフォニア」なんて「名曲クイズ」にしか聞こえなかったもんな。

19981101
嘘の浮気と会話における所有について。
▼会話の中には所有を喚起するような名詞がある。会話はその名詞の所有をめぐる。単にその名詞を呼ぶだけでなく、その名詞に向けて動詞を発し、その名詞に動詞を続け、名詞に向けて行為し、名詞に行為させる。名詞に実体が伴おうが伴うまいが、名詞をめぐって会話が重なることで、名詞を中心とした行為空間ができあがる。行為によって名詞のありかだけが決まる。名詞は、語られることで、具体化するどころかどんどん抽象的になる。▼たとえば次のような一節。


 始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三沢に譲らない位鋭かった。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客の別は既に付いてしまった。それからと云うもの、「あの女」の噂が出る度に、彼は何時でも先輩の態度を取って自分に向った。自分も一時は彼に釣り込まれて、当初の興味が段々研ぎ澄まされて行く様な気分になった。けれども客の位置に据えられた自分はそれ程長く興味の高潮を保ち得なかった。

 自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢も又、あの美しい看護婦をどうする了簡もない癖に、自分だけが段々彼女に近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。其処に自分達の心付かない暗闘があった。其処に持って生れた人間の我儘と嫉妬があった。其処に調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するに其処には性の争いがあったのである。そうして両方共それを露骨に云う事が出来なかったのである。
(行人/夏目漱石)

▼語り手からは/読者からは、女の姿は隠され、女をめぐることばだけが続く。▼話すことで女=名詞をめぐる行為が構成され、三沢の退院を遅らせる。性と名詞が結びつき、性をめぐる所有のことばが生まれる「明治」の感性。いや、それは「明治」に限定される話だろうか。


月別 | よりぬき | 日記