雷門前・谷崎潤一郎「秘密」




図1:明治期の雷門前 *1


 現在と明治・大正期の浅草寺付近には大きな違いが少なくとも三つある。雷門がないこと。仲見世が煉瓦造りであること。そしてもうひとつは、五重塔が観音堂の右にあることだ。
 雷門は明治維新の直前、慶応元年に火事で焼失している。現在の門は戦後、昭和三五年になって松下幸之助が寄進したもの。だから明治期の絵葉書には「雷門」という地名はあっても、実際の門はない。仲見世は明治十八年、煉瓦造りで登場したが、大正一二年の関東大震災で全壊し、さらに戦災で焼失し、その後再建されたのが現在のもの。五重塔は昭和二十年に戦災で焼失、現在の塔は昭和四八年に再建されたが、その位置は元の場所から移って観音堂の左になった。

 浅草には観音堂を中心としてさまざまな記憶の手がかりが存在しているが、一方でそれは、何度も意匠を組み替えられ、移動させられている。浅草の記憶をたどろうとするときは、必然的にいくつもの屈曲を経ることになる。

 さて、先の三つの違いを図1の写真絵葉書で確認しておこう。写真は東京の市電開通前(明治二六年ごろ)のもの。雷門はなく、そこは人力車が集まる広場となっている。
 仲見世が煉瓦造りであることを誇るように、両側の建物の断面は切妻型になって、はっきりと煉瓦の肌理を表わしている。その前には、日傘を立てた休憩所らしきものも見える。仲見世通りの突き当たりに見えているのは仁王門(現在の宝蔵門)。観音堂はその向こうにあるはずだ。そして、右側には遠く五重塔が見えている。



図2
 図2は、市電開通後の様子を写した絵葉書。電車の動きを振り返りながら男が大八車を引いている。二階や三階の高さに「赤門おしろい」「花王石鹸」の広告看板が見える。陰になっているが、右手には仁丹の絵看板も高々と掲げられているはずだ。仲見世には丸屋根の塔が増え、電線は複雑に宙を渡っている。明治末期、雷門前の頭上は騒々しくなった。

 この賑わしい雷門前に夜が訪れ、頭上から大雨が降る。「ふだん賑やかな廣小路の通りも大概雨戸を締め切り、二三人の臀端折りの男が、敗走した兵士のように駆け出して行く。電車が時々レールの上に溜まった水をほとぼしらせて通る外は、ところどころの電柱や廣告のあかりが、朦朧たる雨の空中をぼんやり照らしているばかりであった。」
 谷崎潤一郎「秘密」(明治四四年)の男は、そのような晩に、びしょぬれになって歩いて雷門前にたどりつく。あたりに人影はない。と、暗闇から相乗りの人力車ががらがらと近づいてくる。車夫は、男に声をかけるや後ろにまわって目隠しをし、ざらざらした手で男を掴んで車に乗せる。幌の中に、女の匂いと温もりがする。かじを上げた車は、「方向を晦ます為めに一つ所をくるくると二三度廻って」走り出す。

 「雷門」に門はない。そのぽっかりとした空間で、人力車はめまいを誘うように回転する。門を失った「雷門」で、男は方向を失う。そこから人力車は、入り組んだLabyrinthの果てにある女のもとへと向かっていく。

(2001 August 9)



*1 この絵葉書と全く同じ写真が『明治の日本』(横浜開港資料館編、有隣堂)に収められていた。解説に「中央左寄りに梅園館観工場の時計塔(明治25年)がみえ、共栄館観工場の時計塔(明治27年)が姿を現していないことから明治26年(1893)頃の仲見世風景になろう。」とある。このことから、明治期の彩色絵葉書には、横浜写真の彩色ものが転用されたものがあることも伺い知れる。
絵葉書にはときおり下にナンバーの入ったものが見られることがあるが、これらは元が横浜写真である可能性を考えるべきかもしれない。

(2002 Jan. 14)

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