十二階を種に大金儲

都新聞/大正九年三月六日


◇塚本工學博士の奇抜な考案
◇根元から打倒すは容易な技


◆辛くも類焼を免れた浅草の十二階を根元から打つ倒したら面白からうぢやないかといふ話が或る会社の席で持ち上つた、あの大きな図体で地上に打つ倒れたらその地響が界隈の人家は筋斗(もんどり)打つて躍り上るであらう、それが甚だ迷惑ではないかといふと、その迷惑を除く方法は幾らもあると座客の一人の塚本(靖)博士は白い髭を捻つて微笑みながら語るところを聴く
◆亜米利加では善く高い煙突を根元から打ち倒しますよ、私が彼土(あつち)へ行つてゐた時にも或る製造場の百五十尺もある煙突を打ち倒しましたが実に壮観でした、多数の見物人は大地震のやうな地響と共に濛濛と揚る砂埃を浴びながら熱狂的の歓呼を揚げました
◆煙突を倒す時の条件としてその倒さうと思ふ方向に、煙突と同じ長さの空地が必要です、工夫は先づ鏨(たがね)で倒さうと思ふ方の煙突の根元の横腹の煉瓦をコチコチ壊します、一枚々々壊して行く煉瓦の跡へは、直に材木を詰込んで行きます、かうして丁度その煙突の直径三分の二位まで煉瓦を壊し、材木を填充するのです詰り煙突の横腹に大きな孔を明けて、煉瓦の代りに材木が填められるのです
◆この小路が終ると工夫共は其の材木に火をつけて大急ぎで退却します、遠巻に取巻いてゐる群集が手に汗を握つて眺めてゐます、煉瓦代りに填めた材木が焼け切って煙突の腹に孔が明くと煙突は凄じい地響と共に其の孔の明いた方へ倒れるのです
◆此(こ)れと同(おな)じ方法で、界隈の人達に迷惑がられてゐる十二階を倒すと云ふことは痛快ぢやありませんか、十二階の持主は誰がなんと言はうと打壊さないと頑張つてゐるやうですが内實は壊すに費用が掛るから空威張をしてゐるのでせう、自分の費用で壊はさせて呉れといへば屹度(きつと)承諾しますよ。乃(そこ)で大金儲けが出来るのです
◆十二階から続く吾妻座の焼跡の空地は確かに廿間はありませう。愈(いよいよ)打倒すとして東京の人達に見物させます。只で見せるのではありません、入場券を賣つて見せるのです、物見高い土地ですから何萬人といふ入場者がありませう。一人十銭づつとして何千圓になります、別に活動冩眞師に特約して工事の最初から活動冩眞に撮らせます、倒壊刹那の凄じい光景などは、活動冩眞に取つては此の上もない好材料です
◆活動に撮つた冩眞で、全国へ巡廻興業をします、これでも大した金儲(かねもうけ)が出来ますよ、倒壊の時の地震で界隈の人家がデングリ返しになるといふなら、倒さうとする方向へ大きな池を掘ればよい、何なら前の瓢箪池を利用するのが尤も好い、水の中へ倒れれば大した地響(じひびき)がしない、但し近所一帯は大夕立(おほゆふだち)の降る位の覺悟をしてゐなけれやなりません

 大正九年三月、十二階のすぐ隣にあった吾妻座(元浅草国技館)が焼失してしまった。上の記事はこの火事を受けて「辛くも類焼をまぬがれた・・・」と書き出されている。談話者として出ている塚本靖は当時の東京帝国大学の工学部長で、十二階を設計したバルトンの教え子でもある。「第二回明治建築座談会」(建築学会、昭和七年記録)では、「何しろバルトンと云う先生は余程酒が好きで常に酒を飲んで居りましたね、呑気な人でしたな」と回想している。

 明治二七年の東京大地震の際には大学院生として各地の地震後の調査者として名前が記録されている。そのおかげで、十二階の立地条件やその建築の危うさを認識しやすかったのかもしれない。

 明治三七年に発刊された「ハガキ文学」では、絵葉書の蘊蓄を披露したり、自身のコレクションを掲載したりしており、絵葉書コレクターとしての一面もあったらしい。

(2001. June, 2001 Dec. 22 説明を付す)




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